2018年1月28日日曜日

2018年1月24日康賢實・真のお母様のみ言葉 「信じた分だけ実り、為にいきた分だけ、神様とともに永生できる。」

2018年1月24日康賢實・真のお母様のみ言葉




15:00~31:32翻訳:ここからJHON

皆さん、お会いできて嬉しいです。今日は…(マイク設定)できましたか?はい。

今日は数名しか来られませんでしたね?それでも、王様が水曜日礼拝を導きなさいと言われたので、私がみ言に従順であるという意味から、今日はここに出てきました。

聖書のみ言は、ピリピ人への手紙3章20節にあるみ言です。どんな内容かと言えば、わたしたちの市民権は天にある。

今日、皆さんは、アメリカの、とても取得が難しいアメリカの市民権をもらって、ここに来る事ができたと理解しております。ところで、そこにはどのような内容が記録されているのかと言えば、「わたしたちの市民権は天にあるのである。」

今日、皆さんは「天の国の市民権を、私がもらって生きている。」これを考える時、本当に皆さんは重要な位置にいるだけではなく、今日、皆さんが本当に望んで、願ってきた天の国にある天国の市民権を持って、今日、皆さんがここに参加されたと考える時に、私たちは皆、嬉しいのです。

地上で何も知らずに生きる人々が多いです。霊界があるのか​​ないのか? この霊界に対して、この世の中の80%以上(の人)が霊界を知らないで、生きています。また、それだけでなく、霊界を知ってると言っても、それでも、彼らは本当に神様がいらっしゃるのか、本当に霊界があるのか、この確信を持てずに生きる人々が多いのですが、今日、皆さんは霊界があることを、私は知って生きていることだけでも、どれほど幸せな皆さんであるかということを、皆さんは幸福なのかわからないのですが、実際は非常に恵まれた位置に、今日、皆さんは置かれているのです。

私が神様を知って、天地万物を創造された神様を知って、また、それだけでなく、私は死んだ後に行く霊界があるということ、天国があるという、これを私が信じて生きることができる位置に置かれているという、それ自体が非常に福なる立場なのです。ですから、今日、皆さんは本当に自負心を持って、私は本当にあきらかに霊界があることを信じています。

それだけでなく、今後、その霊界に生きておられる神様がおられるところ、私たちの真のお父様がいらっしゃるところだけでなく、イエス様がおられる、その場所に私は必ず入って行くことができますという、この自信を持つだけでも、この信仰を持つようになれば、持つほど、皆さんがその位置に立つことができるということを、皆さんが信じなければなりません。霊界があることを本当に信じている人はどれくらい信じているのか?

私が80%ぐらい何を信じているのか?50%ぐらい信じているのか?30%くらい信じているのか?信じている、このパーセントによって、今日皆さんが信じているその位置に行くことができるのですが、私が願うことは、本当に私たちは、神様は生きておられて、遠い将来、生きておられるその神様と一緒に霊界に行って生きること、これを皆さんが感じるだけでなく、知っているだけでなく、本当に皆さんが実感しながら、これに対する確信を持ってくださったらいいです。

どんな確信?絶対的な確信を持たなければなりません。100%、200%ではなくて、非常に、絶対的に、本当に私はこれを信じています。信じることができる、その信仰を持った方々は、皆さんが望んで、願っていたその位置に必ず、必ず、行くことができることを信じられることを願います。

私が最近はですね、天聖経を読んでいるのですが、その内容を見ながら私が、・・・ここに動画もありますが、一人で話をたくさんします。ああ、このように良い所だったのだなあ!このような所を神様が、本当に子女になる私たちのために準備しておかれた神様であられたのだなあと考える時、その父がどれくらい会いたくて、本当に何かと言えば、その父と一緒に私が、その中で生きて、父は私の中に来て、一緒に住んでいるという自信をもっています。
今日、皆さんも全て、皆さんが... ある人々は皆、このような話をします。「私は信仰がありません」という人々が多いです。「私は天国があるのかどうか、霊界があるかのかどうか、私はわからない」という人々が、私たちの食口の中にもたくさんいますが、ここに対する確信を持っている人々は、これを絶対的に信じている人は、いくら押し出して、手で叩いても、今日ここを離れることができません。なぜ、離れらないのかと言えば、本当に私が知って、本当に私が信じて、本当に私がその中で生きているので、誰が来て何と言っても、私たちは不信できず、離れることができず、行かなければならないのです。

だから、今日、私たちは一緒に行きましょう!天国は皆で一緒に行かなければなりません。一緒に行かなければならないので、みんなで、私たちは一緒に行くようにしましょう。
今ここに来られた... 今日、数名しか来られませんでしたが、皆さんが本当に行く道がそのように平坦な道ではありません。特に聖殿食口は、さらに悪口もたくさん言われて、多くの人々に後ろ指をさされて、また家庭連合の方々から、人としての扱いも受けられず、また、私たちに対して非常にそれこそ、何の信仰もないようなこととして考えられていますが、今日、私たちは、今日、この時間、ここではああ、私たちはそのようではないと、本当に生きておられる神様が、私たちの側になって一緒に同行、同事、同役しているという信念を持たなければなりません。この信仰を持たなければなりません。そうしてこそ、今日、皆さんが信じていた、その位置に行くことができます。今日、皆さんが本当に今まで信じながら、悪口を言われ、皆さんが信仰の道を来ながら、迫害を受けてきたすべてのものがみ旨の中で解かれて解決されるのです。

だから、実際に天国という所は悪口を言われる人が入って行く所なのです。聖書にそのように書かれています。何と書かれているかと言えば、あなたたちが多くの人々から、苦痛を受け、悪口を言われ、違うと言われる、そのような立場に置かれている。手で打たれても心配するなというのです。
「喜んで楽しくせよ」なぜそうなのかと言えば「天の報いは大きい。」このみ言がマタイ5章を見れば、山上の垂訓に書かれています。
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。本当に世の中を生きながら、罪がないという人はいません。皆、罪をたくさん犯して、生きてきました。ところが、その罪をこれが間違いだったなあと考えて、皆さんが深く悔い改めて、深く皆さんが真の涙を流しながら、自白して、深く皆さんが謝罪するようになる時に、その父は全て、皆さんの罪を、私たちの罪を記憶なさらずに、本当に許してくださるということ!

ですから、イエスを信じる人々の大多数がそうです。イエスを信じて、なぜイエスを信じるかと言えば、天国に行こうと信じています。天堂(天国)に行くと信じています。良い所へ行こうと信じています。皆、そのような話をするのですが、クリスチャンだけがそのような話をするのではありません。クリスチャンはクリスチャンなりに、私は天国に行くために信じています。
仏教徒に聞いても同じです。そのお金、多くの仏教徒が何を話しているかと言えば、なぜ釈迦を信じるのか、と言えば、それこそその良い極楽世界に行くと、私は信じています。また、それだけではなくて、さらに儒教人たちの信仰は、どのように話をしているのかと言えば、私は真の人、真人に真人が行っているその道、磨いてきたその位置、道の実を結んできたその位置に行くために信じています。
すべてが信じるのに、目的があります。どこか?天国に行く。その次には極楽に行く。その次には、楽園に行く。また、世の中の人々は、何だと話しているのですか?私は本当にこのように信じて、パラダイス!パラダイスが天国です。そこを皆、目標としながら、信じているのです。

今日、私たちの胸の中にも...私たちは悪口をたくさん言われました。私も実際に既成教会にいる時は、あまり悪口を言われなかったのですが、統一教会に入って来て、悪口をものすごくたくさん言われました。人としての扱いをされずに、まさに蹂躙して、ずっと押さえつけ、罵って、このようにして来ましたが、私は、それでも統一教会を私は心の中で一度も捨てることなく、心の中で一度も悪いと考えなかったので、お父様が私を見て、言われたのです。あなたも統一教会を反対しなかったのか?それで、ああ。私は反対しませんでした。いつでも統一教会、それならば、私の心なのか、神様の心なのか分かりませんが、どのように考えているかと言えば、本当に、本物の、真の道、真理の道、神様が認定する道、神様が共鳴してくださる道であることを私は知って、信じて、一度も私は反対しませんでした。そのように言ったのです。

そうだったのですが、今日ここにいらっしゃる皆さんもその心を持ちましょう、私たちが。
世の中で悪口を言われ、蹂躙され、迫害を多く受けてきて、手で打たれても、私たちの心の中で、本当にこの道は、真の道であって、神様が一緒にされた道であって、この道を通して神様が役事しておられるということを、これは100%、絶対的に、1000%、皆さんが信じて進んでいく時に、この信じてきたすべての信仰が、皆さんが天国に行くことができる材料になります。

天国には誰が入って行くのか?いつも私たちがたくさん聞いたでしょう?為に生きる人々である。犠牲になって奉仕して、受け入れて仕える人々が、仕えることを受けようとするのではなく、仕える人々が入っていく。このように今なっているのです。だから、天国は誰が入って行くのか?自分のために生きた人は一人も入って行けなかったというのです。見たところ。お父様のみ言を見ると、そうなのです。
自分のために生きて、自分のために動いて、自分のために一生を、お金を稼いで、何、たくさん犠牲になって、奉仕をしてきたとしても、自分が入っているので、ダメです。だから、自分を全て捨てて、踏みつけられて、すべてのことを皆、犠牲にして奉仕しながら、生きた人々はどこに行くのかと言えば、天国に入って行くことができるのです。

ですから、今日、私たちは天国に行くのに、このチケットを神様が、何かと言えば、行きなさいとしてチケットを下さるのではありません。このチケットは、どこで私たちが受けることができるかと言えば、天国に行くことができるチケットは一番初めにサタンから受け取らなければなりません。サタンからこのチケットを受け取らなければならないのですが、どのように皆さんが、受け取らなければならないかと言えば、2000年前、イエス様も話しました。サタンが全て嘲弄して、サタンが本当に殺そうとする、その恩讐の前でも、祈りながら平安な心で、彼らのために、彼らのために愛して、彼らのために奉仕して、彼らのために祈って、恩讐まで愛する、その境地にイエス様自身が入って行ったのですよ。それを、万一できなくて、なさらず、イエス様自身が恩讐を憎み、私を殺す者に対して悪口を言って迫害したなら、歴史は変わったことでしょう。そうだったのですが、イエス様自身が敵のために祈ることができる心を持っていたのです。
31:32~45:13翻訳:ここまでJHONここからcham
今日、ですから私たちは生きながら本当に神が認めてくださって、ああ、あなたは本当に天国の民である、そのように生きれば天国を所有することができる、というその場に入って行こうとするならば、犠牲になり、奉仕して、ために生きなければなりません。そうです、お父様がいつも言っておられました。数年にわたって説教されたのですが、私が覚えています。その説教の内容が何かというと、すべてために生きろ、ために生きなければいけないということ、ですから今日小さいことから大きなことになるまで、為に生きる生活をする時に、私たちに来るのは、天国が尋ねて来るようなって、神が尋ねて来られ、お父様が尋ねて来られ、イエス様が尋ねて来られ、全天宙が私たちに尋ねて来ることがありますが、それをできないようにされた時は、いくら自分のために犠牲になり、奉仕し、自分のためにお金を使っていたとしても、これは合格ができないのですよ。

それで私が天聖経を読んでみると、書いてあるのです。お父様も、霊界に行ったとき、神様があなたは地上で何をしてきたのか、そういうことなのですよ。私は地上で多くのお金を使ってきました。もしそうならば、それは合格にならないのです。お父様でもできないのです。そのため、使うには、ために使うようになって他人のためにするようになったらば、これは合格になりますが、自分のために私の名前のために、私の統一教会だけのために使った場合は、これはすべて何にもならないと言われたのですよ。
そのため、今日、私たちは、今朝ひとつだけ学んでいきましょう。何を学んで行くのかと言うと、本当にために生きる生活、奉仕する生活、他人に仕える生活、高める生活!するにおいては、自分のために使えば本当に一つもできないのですよ。だから何かと言えば、本当に国のために、民族のために、世界のために、世の中のために、私たちはすべて心の中から血の中から骨の中から胸の中から染み出るその心情を持って、私たちはお金も使って、私たちが犠牲になり奉仕するようになるときは、そこには非常に素敵な天国が、来るなと言っても来るのだそうです。押し出しても押し出されるのではなく尋ねて来るとおっしゃいました。そのため、どれだけ私たちがために生きる生活をして行くのか?
本当に霊界というのは恐ろしい場所だそうです。
私はそのみ言葉を読んでみて、本当に感動をたくさん受けながら、お父様は人ではないんだなあ、本当に神様のような心を持って生きて来られ、神様の心と同じ生活をされ、神様の心と同じ心で、私達に教育し教えてくださった。ああ、こんなことを考えるときに本当に私は読みながら、たくさん泣きました。世の中にこんな方がおられたのだなあ。
でも私たちはただそれをどのように知っていたかというと、自分なりに考えて分析し、自分なりに何かというと、決定してみたが、分かってみれば、それは違ったのですよ。
今日、私たちは本当にお父様が来られた方だということ、地上でイエス様が責任をすべて果たせなかったことにより、再び来ると言われましたが、もう一度来るとされたその再び来られた方であると、これを私たちは心の中深く考えなければならなりません。
ですから私は、そのみ言葉を読みながら、わあ、再び来られた方に私が会うようになったのだなあ、再び来られた方と一緒に、私たちは、この地上に神様が願われ、ご希望される天国に私が入っていくということを見て実現するために骨を折られ、努力しているか、これを考える時にどんなにありがたく感謝であるかわかりません。
それで、私は地獄というところに行ってきました。地獄、地獄がどんなところであったかと言うともちろん、既成教会員達が知り、仏教家の知る地獄というところは恐ろしいところであり、まさに硫黄の火がごうごう燃える火の淵だと思っておりますが、もちろんそんなことも地獄でありましょうが、地獄はどこが地獄かと言えば、神様が私から離れて(神様が)いらっしゃらないところが地獄です。私が神様の主管を受けることができず、私が神様と一緒に住むことができない、神様からの干渉を受けることができず、神様がさせるとおりにしない、その場所が地獄であることを私はたくさん感じたのですが、それ本当に辛いことなのです。神様が私から離れていらっしゃらないで私の勝手に、私の意のままに、私を中心として、自己中心で生きるならば、いくら世の中で良いことをたくさんして何をしたとしても、天国には行けないようになっているのです。私がそのみ言葉をすべては読めませんでしたけれども半分以上を私が読みながら多く感じたことなのです。
今日、皆さんも天聖経をちょっと買っ、ちょっと読んでいただきたいと思います。その中に全く本当に無尽蔵に深い真理が、み言葉が、宝が隠れているのです。私はそれを読みながら長い間信仰生活をしましたが、感じられませんでしたが、ああ、このようなところが天国だなあ、このようにしないならば、神様に会うこともできず、また、イエス様もお父様も会うことができないということを感じたのです。
それで遠い昔、お父様がいつだったかそのようなみ言葉を語られました。何とおっしゃったかというと、もう、復帰歴史がすべて終わり、人々を皆天国に送って、地獄に行った人々が一人もいなくなったときに、神様も本当にああ私が責任をすべて果たしてこのように皆天国に来たなあ、お父様もそのような心を持って、いざ神様とお父様が再会したときに...お父様がこう言われました。
ああどのくらい世の中で苦労をたくさんしてきたのか?苦労をたくさんしたのか?本当に息子としての責任を果たそうとして他の人が感じることができなかったことを感じて、他の人が知らないことを実践されながら生きてきて、神様がお疲れ様とおっしゃるときに、真のお父様が答えを何と言われたかというと「天の御父様のご苦労と天の御父様が成し遂げておいたすべての役事は、私がしたものの数千数万倍になります。」そうしながらお二人が抱き合われながら本当に握手をしながら「成し遂げようとされたその世界をこの地上に成し遂げられました。探し求められたその世界を見つけました。全地に人類一人も残りなく全員が真の天国で生きることができる全員が地獄のすべてのくびきを脱いで、天国で生きることができるような世界を作り、そのような人々を作り上げました。」としたときにお二人が非常にそこから非常に深刻な、その場面のことをお話しされるのを私が聞きましたが、わあ、本当に天国というのはどんなところなのか?自分がいいところに行き、自分がよく食べ、よく着て、よく生きようとしたということより、本当に世の中に生きているすべての人々が共に万国の万民が皆胸の中に天国を成し遂げ生きることができる、その世界を作り上げたときに、そのみ旨が成されたときに、神様が探し求められた世界が見つかったので、この本然の世界が成されたときにどんなに嬉しく思われることでしょうか?

日、皆さんも胸の奥深く私は天国の良いところに行かなければない、そのような人は絶対に行けないのです。私は良い天国に私入らなければならない、まあ扶助(援助)をするとか、これぐらいなら私は他人のために生きただろう、このように考えても、自分がそれに入ればだめですよ。自分が混ざればだめなのです。
そのため、非常に絶対的に自分を捨てて、その、そのイエス様もそうじゃないですか。自分を捨てて、さらに十字架を背負って、私の背中に従わなければならないと言われたのと同じように、今日、皆さんもそのような言葉、そんな生活をして、そのような私になったときに、今日、私たちは、この地上に来たその目的は全て成し遂げた位置に立つことができるのです。
この天国というものを説明したのですが、見たら、その世界はどれほど・・・この世界が問題ではありません。ですから皆さんは、死ぬという恐れを一つも出さないでください。なぜそうなのかというと、今後、私たちに近づいてくる世界、これから私が行くべき世界は、この説明では、することができないような素晴らしい世界です。ないものはなく、考えたらすべてが結果としてすぐに現れるというのです。1分、2分に全体がすべて成される世界、私は本当なのか知りませんが、本当にそのような世界が天国であるというそのみ言葉を私は見て、わあ、本当に何、そのように病気になったといって私が死ねば大変なことになるとか、私は薬を飲んだりする必要がないな、今や行くところはこの世界よりは千倍万倍、数千億万倍、もっと良いところが私達のために用意されている。今日その世界に一度行ってみることにしましょう。(はい)本当にですよ。

今日、皆さんがこの聖殿教会に出てきたからと言って、そのように悪口を言われ、皆さんが、私も人の扱い一つ受けられずにいます。

康賢実といえば、誰もが、あぁ、何かというと、お母様を捨て家庭連合を捨て、すべて異端側に行ったと、騒動を今騒がれながら人扱いされないでいるのですが、、それは問題ではありません。私たちは、迫害を受けて、本当に悪口をたくさん言われたときは、真の道を行くときは、その悪口がその迫害がすべて今日、皆さんに天国に行くことができる材料となるものであり、天国に行くことができる内容になるのですよ。

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だから一つも皆さんが心の中で、あぁ、みんな悪口言う道を私が行っているんだなぁ迫害する道を私が行っているんだなぁと考えないでください、もう。本当に良い世の中が来るようになり、霊界はとてもいい所ですが、入る資格を私達が本当に磨かなければなりません。だからどんなに忙しいか分かりません、皆さん。皆さん忙しくなければなりません。なぜかというと、その資格を地上でこれは磨かなければならず、霊界に行ってからは出来ません。地上に住んでいる時に住んでいるところで私がしなければならないため、このようなことをおいて考えるならば、皆さんが欲張らず、意地を張って生きず、本当に為に生きる皆さんになったときに、神様が訪れ、お父様が訪れ、イエス様が訪れて、総霊界が全て訪ねて来て、天宙が皆さんに訪ねて来て抱いて下さり天宙が皆さんに訪ねて来て愛して下さるその世界。

私は、、、時には本当に懐かしい時があります。神様が創って下さった最初の本然の世界が懐かしいです。その世界を私に見せて下さりその世界を私が私の中に築いていけるようにして下さり、その世界が私の世、私の世界になるようにしてください、と祈る時が度々あり、老いたものが時々そんな考えをする度にその私があの御言葉を見ると夜明けの3時まで4時まで5時まで夜を徹してみるときもたくさんあります。嘘じゃないです。これを友美さんが全部見ていますが、この友美さんがいくら私と競争をして自分も寝ずにしなければならないと思ってるようでも、私がそれで聞いてみた。そうではないのかと、そしたらそうなんですって。でも本当にお父様の御言葉は本当にどこかで考えることの出来ない御言葉、どこかで聞くことの出来ない真の御言葉を私たちが知って、また、その次に信じて私たちが実践できる段階に入ったということを胸の中深く皆さん達はありがたい心、感謝の心を持たなければならないのです。そうなったら、感謝したその場その場がまさに私の場所になってそれが私のものになりうるということなのです。

私ももう一生を、み旨のために生きようと苦心しました。苦労もまた多く、そう、お父様が私を見て、康賢実にすまない事が多いと言われました。何をどうしてそうなのか分かりませんが、すまない事が多いが、本当に伝道に行って帰って来ると、その場で何と言われるかと言うと、一晩寝てからそうしない。一時間後におっしゃることもありません。その場で"またいつ行くか?また、出て行かねばならないだろ?"いつもそうでした。それで私が'わあ、あの方はどうしてあんなに私たちが思う、私が世の中の人について考えろと言われれば、本当に別世界で生きているんだな'ということを感じたものです。今日私たちが本当に聖殿の食口達を思う時に私もここに来ながら思う時に、本当に悪口もたくさん言われ迫害を受けましたが、その非難され、迫害を受けた事は、そこに自分がそこにプラスになって自分を中心にやったと言えば、いくら非難され、どんなに迫害されても、何一つ無駄です。本当に真のお父様の御言葉のとおり、為に、天の為に、神様の為に、み旨の為に、民族の為にしたその様な事が価値あるものとして現れ、そこで本当に何かと言えば願いをかなえることができ、私たちが考えてきたすべての全体のみ旨が成就されますが、それがないときは自己中心でするようになる時は一つも効力がないということを私はたくさん...事実そうなんです。

だから私たちは本当にどう生きなければいけないかと言うと、お父様が望みそのみ志のまま生きなければならないのに、本当に一生というのは瞬間なのに、どうしてこの世で私たちがあまり資格があるわけでもないし、何でもない私たちが神様を知り、真のお父様を私たちが訪ねるようになりイエス様と因縁を結び霊界と因縁を結ぶことになり、天宙と因縁を持って暮すことができるこの幸福で貴い位置に私たちを立てて下さったことを考えると本当にありがたく、感謝の気持ちを私たちが持ってこそ...感謝してますか。皆さん。どうですか。ありがたいでしょう?その多くの人たちの中で私たちは本当に天国を私たちが実質的にあることを知り、信じて天国内に入ることができる、そんな資格を私たちが作って暮らすという事はこれはとてもありがたく、感謝することです。

今日、一生私のために暮らすそのような価値のない生活をしないで本当に為に生きて逝く今日、皆様になって、私もそんな風に本当にならねばいけないのに、それが上手く出来ません。出来ない故に'あ、神様そんなに大変ですか。そんなに大変な道ですか。なぜこんなにうまくいかないのか。心からそう生きんとするそのままになされていません'とする時が多々あります。それで本当にそれで今日はお父様がされたその祈祷の内容をちょっと読んでみようと思っています。あれ私が持って来なかったか。お父様がされたその祈祷の内容が、一言一言本当に血と汗とその何かと言うと骨の髄からにじみ出る心情を持って祈祷された時に私もたくさん泣きました。本部教会でお父様が祈祷されながら本当に慟哭をしながらお祈りしましたが、それを本当にお父様のように感じながら生きなければならないのに感じない時が多々あります。

今日皆様もお父様がされたその祈祷の内容これを今、うーん今日何かというと一つも見えません。見えないため出来ません。大丈夫、大丈夫です。大丈夫ですよ。そう、いやいや大丈夫です。今どこにあるのかも分からないね。全部探して来たのにもかかわらず、目がこんなに物体がよく見えません。それで、あ、そうかあまり残ってないなあ、と思いながらそれで、今日出てきました。私が願う事は、お父様が本当に皆さんが暮らしながら、もちろん自分のために生きるなとたくさんおっしゃっりましたが、何を私たちが感じなければならないかと言うと、本当にお父様の祈祷の内容を私が聞く度に何を感じたかと言うと、本当に昔は慟哭をしながら祈祷をされました。
ただ泣きながらお祈りしたんじゃないよ。とても慟哭をしながらこの骨の髄から、肉の中から、血の中から、胸の中からにじみ出るその爆発した心情で祈祷された時が多々あります。その時に共に一緒に泣きながら過ごしたのです。

今日皆様もお父様と同じそのような心情をたくさん皆さんが感じ実践して御言葉通り実践してその様に過ごす時に今日皆様が行けるところは本当に神様が予め準備しておかれた所があります。皆さんのために本当に準備しておいた所が必ずあると知っています。だから私たちは本当にこのように導かれた場所にこの様に今日私たちがたくさん探して願ったその場所、これを探して我々はそこで暮らしている事をありがたく思い、感謝しなければなりません。昔イヨンド牧師という方がいました。金永雲先生もよく知っている方ですが、メソジスト教会で監理師としていた方です。ところで悪口をたくさん言われ、メソジスト教会から追い出されました。追い出されてこのようにしましたが、その方が言った言葉をみるとどうかというと、本当に食べることもイエス、着るのもイエス、お祈りもイエス、望みもイエス、希望もイエス、あまりにもイエスと言って狂って暮らした方がいます。

だからその方のお話を聞くと、メソジスト教会の監理師なのに何かと言うと、その方のお話を聞くとイエスを全く信じなかった人でもその場に来て後で監理師になった人がたくさんいます。その場に来て信じて、まるで新しい人になって帰って行くような人たちがたくさんいます。今日皆様も真の人になり、まっすぐに生きて私たちが行かなければならないでしょう。そのまま何かというとサタンが讒訴できる、サタンがあの人は駄目ですと言える、そういう位置に入ってはいけないんです。全てが皆、神様から私たちは本当に決定を受けて、どんな決定、天国に入ることができるという決定を認定を受けて決定を受けて判定を受けて、本当に天国に入ることができるチケットを我々が受けても残ることの出来るその様な位置に今日我々が入ることが希望であり、また更にはそれを私たちに要求して願われているので、今日私たちは私を全て踏みにじって私は何もありません。本当に私を通じて神様のために生き、また、すべての人たちの為に与えることができる自分になるために努力をたくさん一度やってみましょう。

出来なくても私たちが出来ないと考えずに、私たちがやっていく時にここに驚くべき奇跡の役事が必ずあると私が知っています。なぜかというと、ここに今、今日来られなかったんですが、協会長だった方の奥さんいるじゃないですか。美穂さん!美穂さんが、彼女は私たちを一度招待しました。自分の家に。招待をしましたが、ビビンバをとてもおいしく作ってくれて韓国人十五人ぐらい頂きました。誰でもができないんです。十五人ぐらい招待をしてとてもおいしく昼ご飯を、夕食だったか、それをそこで食べたんですが私が言いました。今日こんなに牛肉にキムチにおいしい物をとてもたくさんしました。それで"まあ今日こんなにお金をたくさん使って月給を全部使ったんじゃない?"私がそう言ったら、彼女が何と話したかと言うと,"いいえ。今日、私が本当にそんな風に望んだわけではありませんが、使ったお金の何十倍を神様が全部下さいました。"それで惜しい思いでするのではなく、本当に為にする心をもってもてなして、為に思う心を持って愛する心を持ってしているのを見て、日本人なのにすごい方だという事を感じました。

1:00:45翻訳:ここまでcleanここからjongjong


今日、我々は陰にある隅で光もなく、名前もないそこに本当に為に生きる生活をして私たちに、神様が為に生きることができる、神様が私たちの為にしてくださって、お父さまが本当に有難く、そして立派で、貴重で、訪れてくださるイエス様が本当に一緒にできるそんな生活を私たちがするときに、全てのことに、小さな事から大きな事に至るまで神様と真のお父様とイエス様と全霊界が私たちとともに、同行、同事、同役してくださるのです。やることごとに役事してくださり、やることごとに干渉してくださり、やることごとに主管して下さるというこれを知って、神様に記憶していただける今日の私たちになりましょう。(拍手)

神様が記憶してくださらなければなりません。今日皆様、他でもなく、神様が私たちによくやったと言われ、資格があったと言われながら、本当に苦労したと言われながら、その遠い未来、神様とお父様にお会いしてお互いが本当に苦労したと、父は息子を前に苦労したと言い、息子は父に本当に、本当に苦労しましたと言うときに、その場がどのような場になるかというと、本当に慟哭の場になって、その場が本当にこの地上に本来の世界をなし、本来の人間を作っておいたときに、そのようなことが起こるだろうということです。
今日私たちがまた、本当に為に生きるその心を持って暮らせるようになったら、地上に良いことが起こるのです。そういうことが起こるのです。ところがこれを感じずに生きていくことが多いのです。これを一度感じてみて思った通りに実行しながら、実践するだけでなく、本当に私たちのその働いてきた全体本体になって私たちが光を放つことができる発光体にならないといけません。

多くのところを明るく照らすことができる発光体になって、神様を喜ばせて、私たちは真のお父様を喜ばせて、イエス様を喜ばせて、ひいては、私たちが嬉しく思わなければならないことは何かというと、本当に今や王様を立てて、王妃様も立てましたが、これから私たちが考えるときは、不可能なことだというのが不可能なものではなく、すべてのことが可能であり、実を結んでいるということです。実際にすべてがよいこととして現れていることを見る時に、天が本当に役事しており、神様が一緒になさるということを感じました。

今日皆さんまた、何を感じなければならないのかというと、私の中に神様がいらして、神様を本当に皆さんが感じながら生きるのではなく、知って生きなければならないし、またそれだけでなく、私たちが為に生きる実を結ぶことのできる、為に生きる実践の実を結ぶことができる今日の私たちになるときに、ここに良い歴史が必ず現れて成し遂げられるということを皆さんが記憶されることを望みます。

それで今日私が本当に、・・・人々は行ったり来たりするのです。礼拝もなく、行ったりきたり、していて、私はお父様のそのみ言を見ながら何を感じたかというと、まあ、お父様が本当に、本当にイエス様のように復活して出ていらしたらたらいいなあ、復活してくださったらいいのになあというようなことを考えました。一句一句すべてみ言葉を話して…本当にそのようにみ言葉を語られたことにとても感謝しました。
同様に今日皆様もみ言葉の実体になりましょう。(はい)。み言葉の実体になってこそ、本当にエルダーさんが話したようにこれをはやく、はやくにこの戦いが終わり、母と息子との戦いが終わって、この地に万国に万民の心の中に本当に神様がつけてくれたその本来の人間を自分の中で探さなければいけません。私が実践しなければならないし、私が行くところにはそこを満たすことができるそのような境地に入った場合は、この天国が早く来ると思います。

それで私たちは天国に行きたいと努力しないで、何をするのかというと、天国を本当に伝えることのできる私たちにならなければいけないと思います。天国を作っておくことができる我々になって、私たち聖殿食口たちが行くところにくまなく、ここには人間たちが想像できなかった天国の世界を想像して、暮らせる世界人類を私たちはみな作らなければいけません。それで万国の万民全部が、神様が初めに建てたかったその本来の人間に帰って、神様にお父様にイエス様に本当に喜びをお返しできる今日の私たちにしてくださいと申し上げました。
それで祈祷を一度を差し上げましょう。これはお父様がなさったお祈りです。これいつしたものかというと、1950年度に祈祷されたみ言葉です。

愛するお父様、私たちに残された...これではないみたいですね。

翻訳ここまでjongjong、ここから最後までMinion


報告祈祷
お父様、天倫の全体摂理を導いてこられたお父様の前に主管を受けることができる私たちになるようにしてくださり、全ての地上の人類が、全ての地上に万国の万民のすべての人類が、創造してくださった最初の姿を心に成して暮らすことができる力を私たちに許諾してください。私たちは虫よりも劣る何もできない私たちでしたが、私たちの中に神様が来て一緒にしてくださり、私が神様の中で生きるようになる時、ここに驚くべき奇跡の役事を起こすことができるためお父様は本当に私たちにきてくださり一緒にして下さい。

昔お父様が御言葉を語られる時、どれほど有りったけの力を尽くし、精誠を尽くして御意を尽くして語られるので、背広の上着が水をこぼしたようにびっしょり濡れて干さないと着られないほど、お父様は血と汗と涙をまた、そのすべての精誠を尽くして、今日私たちに注いで下さいましたので、私たちは本当にありがたい心、感謝の心を持って、残してくださったこの御言を実践してもあまりある、残してくださったこの内容をこの歴史を万人にすべて伝えてもあまりある驚くべき恩寵をここに与えてくださり注いでくださり満たしてくださるよう、お父様切にお願いいたします。

今日この席は韓国の方たちが中心となった席でした。お父様はどの国の人よりも韓国人を重要に考えられて韓国人を中心として、お父様の役事を多くしてこられましたが、私たちはお父様が望み願われるように生きることができない時があまりにも多かったです。
許してくださり、この時間もお父様がどれ程気を揉みながら望まれる内容があります。このお父様が望まれるみ旨とお父様が成そうと願われた内容の役事が一日も早くこの地で成し遂げられるようにして下さることを切に切にお願いいたします。

そうしようとするなら、今日私たちはお父様の前に真の孝子になり、孝娘となり、忠臣になり、烈女にならなければなりません。それで私を全て捨ててひたすらお父様が願われた望まれた我々自身をこの地で成し遂げて作って行くことができる私たちにして下さることを切に切にお願いいたします。

今日このように少数の群れが集まりましたが、本当に一分でも心の中の隅で神様の相対になれるし、お父様と一つになることができる心の座を持つ方がいるとするならば、その方を中心にしてこの地の上には新たな復興の役事が新しい火の役事が新たな奇跡の役事が起こることができるようにお父様が助けて下さることを切に切に願います。

御旨と愛が私達と共に一緒になって、私たちの二代王様また、カインとアベル三代王権を中心として、成し遂げようと願われたすべてのみ旨が成されるようにしてくださり、今お父様、(二代王が)外出中ですので無事にお父様、ここに帰ってくることができるよう共にしてくださり、今、聖殿食口たちをもって、本当にこの時に私の責任が何かを知って責任をはたすことができる私たちになり、私たちに本当に来て下さり共にしてくださることを信じておりますので、共にしてく下さることを懇切にお願い申し上げます。

み旨と愛がとこしえに今日私たち全世界にいる食口たち全世界にいるすべての人たちに祝福して下さり本当にこの地が、一日も早く天国になるように役事して下さることを切望して望みながらこのすべての言葉を祝福中心家庭康賢實の名前で切に報告し祈祷申し上げます。アジュ。

(エルダー本部長:お母様ありがとうございます。)

お母様:はい、ありがとうございます。

(エルダー本部長:拍手を、拍手でお礼申し上げます。)

康お母様:拍手することもありません。ただそうなのです。
とにかく私たちがよくして、神様が助けざるを得ない、真のお父様が助けざるを得ず、霊界が助けて、天宙が一緒に出来る、今日私たちになるために努力をたくさん・・・、ところでこれは為に生きる事は私が努力しなければならないのです。私が全てしてこそ、ただ座ってその世界が来てみ旨が成されるわけではないので、私たちがじっと座っていないで本当にしなければならないことをしてもあまりある私たちとなっていきましょう。

(エルダー本部長:わかりました。ありがとうございました。もう一度拍手を送りましょう。)

康お母様:拍手はすることはありません。

(エルダー本部長:お母様がおっしゃるように、私たちは天国に行く天国に行く、このような考えはしないで、私達が天国をこの地に作っておく、このような確信に生きなければなりません。お父様が昨日…)
1:16:12

(この後、康お母様のお話しが続いたようです。)

み旨に狂ってこのように通過する時に、神様が役事してくださいます。真のお父様が役事してくれました。
どういうことかといえば道端で人相を見ているおじさんが私に何と言ったと思われますか。私がただ道を歩いている時にした話ですが、「あなたは大真理を所有していた人です。」ですからびっくりしました。まあ,あの人と私は何の縁もないし何の関係的な知り合いでもないのにどうしてあんな話をするのだろうか。「あなたは何を持っているかといえば、あなたは大真理を所有している人です。」そう言ったから私がびっくりしたことがあります。

また、一度は道を歩いていたのですが、道端でサツマイモを売って座っていたおばさんが、私を見てまたいう話が、どんな話をしたかと言えば、「あなたは今歩いていますが歩いているのではありません。私がじっと見たら飛行機のように飛び回っています。鳥のように飛び回っているようです。もしかしたら、その足の動きが本当に人が歩くのではないように見えます。」このようにおっしゃっいました。

その昔、どんなことがあったかと言うと、お父様が私を見ていつもそうでした。ちょうど伝道に出ようと、どれほど大騒ぎして悪口を言って、まさにこのようにしたのです。そうしたのですが、お父様がおっしゃるお話が、どうしてまた出なければならないのかと言いながら、お話しを何故されたかというと、そうしてこそあなたにも道が開かれるが、さらには世の中が変わるというのです。世の中がどのように変わるのかと言えば、昔にそうでした。
どういうことかと言うと、世の中がどのように変わるかといえば、本当にそんなに叱られることによって、ある時は殴りながら大騒ぎしました。それで内心はこう思いました。アア、再臨主と言いながら、人を殴るのか。私がそんな言葉、そのような心まで抱いたのですが、今大騒ぎしたことは他でもなく、本当に忙しいのです。今一日にも、多くの生命が死んで行くのに黙ってただ座っていていいのか?今日私たちもこの切迫した心をちょっと持たなければなりません。そうしながら、伝道に私を送っておいて、どれほど祈祷ををたくさんして下さり精誠を尽くしてくださった事を覚えています。

今日皆様が本当に他の人がすべて証ししてくれる、その、さつまいもを売っていたおばさんも証しして、ある時は食堂の隅でとてもお腹がすいてラーメン一杯を買って食べたのですが、後で見たらラーメンのお金を出したそうです。誰が出したのかと言ったら、知らないと、あの隅に座っていた人だと。食事代も払わないそういう役事が起こりました。

ですから、神様の記憶に残る私達にならなければいけません。神様が手伝わざるを得ない、共にせざるを得ない、私たちになった時は、ここには本当に考えられなかった奇跡が起きます。一度そんな奇跡を起こしてみましょう。(はい!)

エルダーさんしか「はい」と言う人がいません。他の人は「はい」と言う人が一人もいませんでしたね。(はい!)そうしましょう。(大勢で:はい)

本当にそうすることができる時がもう近くに来ました。時がもう近くに来たので、近い時と私達が本当にぴったりと一致しなければならないから、そのように一度生きることができるように努力いたしましょう。(はい)ありがとうございます。はい。

1:21:28

ー 賛美の礼拝 ー

私の姿そのまま
ダビデの歌
十字架で私は十分です
ここで
毎日州とともに


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天一国二代王様のスピーチ◆2018年1月20日スイス、ローザンヌ【全文】

天一国二代王様のスピーチ(2018年1月20日 スイス、ローザンヌ)【全文】


サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載(ポイント)です。字幕化は2nd Israelさん。教会ブログであるため御言をコレクションしています。聖殿食口以外からも読んで頂いています。ありがとうございます


スイス・ダボス会議と二代王が参加した会議

場所 スイス・ローザンヌ

会議の名称: 防衛のための武器 【Arms for Defense】

翻訳:サンクチュアリNEWS管理人

エルダー本部長:
これが会議の名称です。
「ヨーロッパでの銃の所有権」についてがテーマです。
この会議の準備についての報告を聞くまで、本当に、ヨーロッパでいかに銃が(厳しく)規制されているのか知りませんでしたし、われわれはアメリカ合衆国、とくにペンシルベニア州に住んでいることがどれほど幸運であるか分かりませんでした。
ヨーロッパでの銃規制は本当に厳しいものです。
会議の主催者は「ヨーロッパ主権市民同盟」です。
実はこの会議はヨーロッパのサンクチュアリ食口が企画したものです。
家庭連合のやり方と全く異なった方法で準備しました。
ヨーロッパの食口がお金を出し合って、この「ヨーロッパ主権市民同盟」を立ち上げたのです。そして、この組織が今回の会議のスポンサー(支援団体)になったのです。
彼らが、講演者を探して招聘(しょうへい)しました。会場も自分達で見つけました。すべてを自分達だけの努力で準備したのです。
最初は、王様も参加する予定はなかったのですが、準備が進むにつれ、神様が参加するように願われているのを感じられました。そこに参加するに人々の層を見ても明らかでした。それで参加されたのですが、会議は一日だけ行われます。会議参加者には、参加費として一人50ユーロ(約6800円)を集めました。ここで王様のプレゼンテーションを聞くことにしましょう。

天一国二代王様のスピーチ(2018年1月20日 スイス、ローザンヌ)

翻訳:BAMBOOS

「防衛のための武器(Arms for defense)」協議会での二代王様のスピーチ(2018年1月20日、スイス、ローザンヌ)今日私は自然権についてお話ししたいと思います。哲学的観点と聖書的な観点の両方から、です。普段の説教では私はとても感情的です。ですが今日はもっと学術的になるよう努めたいと思います。ご存知の方は私が大声で怒鳴るのを知っていることでしょう。今日は控えめになるようにします。神様がそれをお許しになるといいですが。


主権を持った市民としての自然権、または権利について調べてみると、私の考えでは、すべての権利はユダヤ・キリスト教の価値観を基礎とせざるを得ません。私たちの権利が団体や組合、委員会や官僚によって決定されるとしたら、実はそれは権利ではありません。それは下位の民衆に与えられた特権に過ぎないのです。
権利は、人間のあらゆる機関、委員会、政府といったものを超えた、超越的なものに根差したものでなければなりません。神様に根差したものでなければならないのです。

人の権利は人の本質に固有のものでなければならず、つまり人が胎内に宿ったら即座に持たなければならないものです。動かし得ないものでなければならず、いかなる外部の力をもってしてもその人から分離できないものです。それゆえに偉大な哲学者の中には、人間の持つ権利や普遍的な価値観について語る場合に、神様についての考えだけではなく真実をも撤回した人がいました。
現代においてとても一般的なこととして、相対主義、道徳的相対主義、哲学的相対主義など様々な哲学が生まれているということがあります。今日、そういったものが大学で強く推進され様々な機関で学ばれています。

残念なことにこのような信条には、何が正しいか、何が道徳的として客観的に正しいのか、そして何が間違っているのかを人間が判断できるという弱点があります。
もちろんヨーロッパでは、ヒトラーという人物においてそのような哲学的立場の影響が分かります。つまり独自の善や善悪の判断を作ることができると考えていたのです。言うまでもなくそれが行われた歴史は世界中の教科書に書かれています。
私が辿った道のりはとても興味深いものです。というのも私はアメリカの非常にリベラル的な州であるニューヨークで育ったからです。しかし、私の父と家族はいつも銃に没頭していました。

ご存知のように、みなさんの中でもご存知の方が多いでしょうが、私の父、文鮮明師が手掛けた最初のビジネスの1つは、韓国で行った銃のビジネスでした。
もちろん父が北朝鮮から逃れてきた後でも有益でした。父はそこで福音を説いていたために投獄されていたのです。韓国に来てからも迫害を受けましたが、最終的には韓国政府と協力して韓国軍のためのバルカン砲のようなものを開発しました。ですから父はこの分野での開拓者であったのです。
しかしおそらく、道徳的なレベルから、あるいは教会の側からはそれが分かっていませんでした。初期の時代に父と共に過ごした人々ほどありありとは。今ペンシルベニア州で、私たちの伝統で言う真の母という方と一緒に住んでいるのですが、彼女もその初期のビジネスに参加しており、その初期のライフルビジネスで最優秀販売員として表彰を受けたのでした。

またご存知かもしれませんが、文師の息子の1人である文國進氏はアメリカでトップクラスの銃の発明者、製造者の1人であり、カー・アームズ、トミー・ガン、トンプソン・マグナム・リサーチといった会社を経営しています。
東アジアの出身でしたが、私たちの家族の過去にはそのようなことがかなりあったのです。すべての人に主権を経験させ、人生における権威を経験させ、自由に神様を追求できるようにさせたいというのが常に父の願望でした。自由社会かどうかに関わらず。

しかし、常に父の祈りは神様を追い求めることであることは明らかでした。それは私たちの権利と価値が神様との関係で決まるからです。
個人的な・・・という考えなしに自然権と人権についての率直な話し合いがありません。ウィリアム・クレイグ博士、アルバン・プランティンガのような卓越した学者の業績についていくらかご存知であれば・・・。彼らはキリスト教弁証学における本当に確固たる強力な立場を取っており、ドーキンス、ヒッチンズ、パリスのような世界のトップクラスの無神論者と討論をしています。私が概要を少し説明すれば彼らの立場がとてもはっきりと分かるでしょう。
その考えというのは、私たちはある設計者が創造した世界に住んでいるというようなものです。例えば微調整(ファインチューニング)という観点で見てみると、つまり宇宙が微調整されているということであり、非常に正確に微調整されているので、宇宙に存在するあらゆる条件の概念に対してどんな修正を行っても、電子、陽子、弱い力、重力なども、完全に宇宙の崩壊という結果に陥るのです。

こういった主張はこのような知的な研究で生み出されました。この場で深く踏み込むことはしませんが、宇宙には偉大な微調整があるというのです。そしてこのような定数や条件は、宇宙が機能するために一緒にバランスを取って働かなければなりません。(そうでなければ)科学者がリバース・インプロ―ジョンとか呼ぶような、生命が完全に絶滅するような事態に陥るのです。
また世の中に善や悪が本当に存在するのかという問題を見てみましょう。例えばレイプ行為が悪であるのか、それとも単に文化的なタブーであるのか、ということです。すると、道徳的な客観的真実について、また言うまでもなく道徳的な客観的真実を与えるものについて、そしてあることが善であるのか悪であるのかを解読するための基準について議論することになります。

もちろん私たちは、本質的に自分の良心から、世の中には悪が本当にあるのだと分かっています。つまり、誰も多数の子供たちが殺戮されるのを見て「それはタブーにすぎない」と言える人はいないということです。またヨーロッパの危機を見て、女性が襲われるのを見て「それは単なる文化的なタブーであり、悪ではない」とは言いません。
ですから人間として直感的に善と悪があるのだと分かっているのです。言うまでもなくこのような立場は、道徳的な客観的真実の議論を通して生み出され、結果が出たものです。これらの話は、神と個人的な神のための理由について最も説得力のある議論の一部をかいつまんで出しただけのことです。
というのも、もっとも現代的な科学ですら、宇宙の創造をビッグバンのようなものとして説明しているからです。私たちは宇宙の本質の始まりについて、すべてのものが元々存在しなかったあるところで一度に始まった、ということが分かっています。言うまでもなくそれが科学の主流の説となっています。
ですから、エージェントのような存在か、選択的な要素を持った個性を持つ誰かがいて、宇宙と私たちの時空の次元に無から何かをもたらしたということになります。

こういった議論が哲学的な論文と知的な著作に広く書かれています。ウィリアム・レイン・クレイグ博士の著作を大いにお勧めします。また、存在論の議論などについてはプラティナ氏です。綿密な議論で非常に深く分析されています。今日はちょっとそれを取り上げる時間がありません。

自然権の話題に戻りましょう。牧師としての私の観点から、神様のみ言を調べる必要があります。私が神様の存在の妥当性について少し要約したのは、結局私たちは、神様なしでは動物に過ぎないからです。何百万年も進化の過程を遡っていくなら、それは何の意味も目的もなく、宇宙空間で巨大な小惑星の岩の上に浮かんでいるのだということになります。
このような哲学と立場は、道徳的には快楽主義的な立場へと繋がります。しかし言うまでもなく、哲学的虚無主義の立場というものは、人生に本当の目的がないという考えです。つまり人生は結局無意味なものだというのです。
もちろんこのようなものは、キリスト教の世界観からは受け入れがたい立場です。というのは、私たちの姿と性質は創造主に似せて作られているからです。ですから私が牧師として、自然権、人権という考えを掘り下げるには聖句を調べなければなりません。ですからそれが今朝、私が最も焦点を当てたいところなのです。
ユダヤ・キリスト教の世界観と枠組みにおいて、我々の自然権は創世記1:26から始まります。
“神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。”
また創世記9:6ではこう言われています。
“人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。”
この二つの聖句は、人の本質について語る場合に、また唯一の被造物として人間はオランウータンやチンパンジー、またはアルマジロや他の何かスイスにいるものでも、それとは異なるのだという話をする場合に欠かすことのできないものです。
それは他と異なる存在論的な存在であり、創造主に対して別のつながりを持っているのです。
ですから人権という観念は、少なくとも聖句的には、人間が神様の形に作られているということに始まっています。これが枠組みの中で当てはめられるべきです。というのも神様は単なる別の人ではないからです。神様はすべてのものの偉大な創造主であり、宇宙の偉大な設計者であり、我々が発見しているすべての定数や条件を生み出した数学者であり、宇宙を支えているのです。すべてのものの背後にある偉大な精神と知性です。
我々が、人間は神様の形に作られていると言うとき、また神様より偉大なものは無いのだと言うとき、それは実に注目すべき言葉であり、強力な言葉です。
言うまでもなくあらゆる生物の中で人間は、宇宙の中で特別な立場を保っています。単なるもう一つの種(しゅ:生物学的な意味)ではありません。単なるある形態の動物ではないのです。
宇宙における我々の立場は非常に特別で独特のものであり、とても大きく巨大なもののように思えます。
エレミヤ書 31:33で神様は人々に契約について語っています。
“しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。“
またローマ人2:14にはこのようにあります。
“すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。”
ユダヤ・キリスト教の枠組みから見て、全人類、すべての男女は一般に、良心と呼ばれるもの、または聖書における心に記された神様の律法と呼ばれるものを持っています。本質的に善と悪の違いを知っており、人々が抑圧されたり搾取されたり、襲われたりレイプされたりする場合にそれが悪いことだと分かるのです。人間は本質的にそのようなことは間違っていると知っています。
聖書ではそこに踏み込んで光を当て、創造主が私たちの心にこういったことを記しているので心が良心となり、意思決定者となって善と悪を識別するようになるのだと言っています。
自己防衛の話題に移そうと考えてみるときに、興味深いことですが、こういったことすべては、生命自体に価値があり、目的があり、それが重要であり、守るだけの価値があるという人間の持つ価値観において決定されています。
我々の生命に価値がないのであれば、とりわけ自分の生命を危険に晒してまでそれを守るだけの価値はないということです。
防衛という観念は、生命、特に人間の生命に価値があり、特に自分で自分を守れない脆弱な人間の生命は保護されなければならない、という考えから来ているものです。
全ての人間はそれぞれの心の中に本質的な性質を持っています。他の人たちが抑圧されているのを目撃した場合、その人たちを守りたいと自然に思う傾向があります。しかしそれは、人間の生命の価値という観念と観点に由来しています。
現代の、ポストモダンの虚無的な枠組みでは、なぜ人権に価値があるのか、またそもそも人間に価値があるのかを十分に説明することができません。
あらゆる虚無主義者とさらに多くの客観主義者がたどり着くことのできるのは、普遍的に優先される行動という観念ですが、それにはあることが善なのか悪なのかと言えるようなものはありません。言うまでもなく独裁主義に反対する理由もありません。それはもちろん、理論上の概念であり歴史的事実であり、もし独裁者が武力で国を支配し、反対する者を抹殺するなどして自身が新しい権力の多数派となる場合、当然ながら道徳的に優位で普遍的に優位な新しい価値観が生まれ、変化が起きます。独裁者が勝って、多くの場合には反対者を虐殺する場合のことです。
どんな哲学的課題や人権と自然権という観念に対する探究も、神様が私たちにくださった神性から切り離すことはできません。せいぜい言えるのは、普遍的に優先される行動ということですが、暴力的な勢力が多数派になったり、自分たちの欲しいものを取り上げるために何の問題もなく武力を使用する、力が正義だとする勢力が多数派になったり、何が普遍的な道徳的優先事項であるかを決定する勢力が多数派になるというような、同じ問題に直面することになるのです。
残念なことにそれは言うまでもなく、ユダヤ・キリスト教の枠組みから見て我々が堕落した国、堕落した歴史と呼ぶ、何度も繰り返されてきた歴史なのです。
また聖書では、神様が人々に出エジプト記22:2で語っていることがあります。
“もし盗びとが穴をあけてはいるのを見て、これを撃って殺したときは、その人には血を流した罪はない”
神様はそう言っています。誰かが夜人の家に押し入ったら、その侵入者がたとえ泥棒であって殺人犯やレイプ反でなくても殺されるというのです。ユダヤ・キリスト教の法律の観点からは、人を殺した人が有罪になるのではありません。
もちろん次の聖句では続けて、朝その人が現れていれば警告を与えるべきであり・・・というようなことです。それで人が殺されればその人は有罪となります。そしてその人を追い出すことができるということです。
ネヘミヤ書4:14。
“わたしは見めぐり、立って尊い人々、つかさたち、およびその他の民らに言った、「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい」。”
これもまた、神様がその民に脆弱な人たちのために立ち上がるよう呼び掛けている例です。自分の血縁者と人々のために立ち上がるのだと。
箴言31:8-9で神様は次のように言っています。
“あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。”
このようにいつもキリストから貧しい人を守るように説得されます。新約聖書の聖句にはこういったことに言及しているものがたくさんあります。
マタイ5章の山上の垂訓では、貧しいものは幸いだ、柔和な人たちはさいわいであり、彼らは神の王国を受けつぐであろうと言っています。
他の人の権利を守るために立ち上がることに言及しているところがたくさんあります。キリスト教の中心的な、聖書的な原理です
また詩篇82-3には、
“弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。”
とあります。
ここでも信者と人類に、弱い人々、苦しむ者と乏しい者のために立ち上がるよう呼び掛けています。言うまでもなくこれがキリスト教の中心的な価値観であり、ユダヤ・キリスト教の価値観です。それは被造物としての人間に根差したものです。それは神様の形に作られています。
繰り返しになりますが、単なる別の種(しゅ)の動物ではなく、宇宙で特別な立場と価値を持つ存在です。
ルカ22章でイエス様が弟子たちに語っていることがあります。非常に有名な逸話でありますが残念なことに、ほとんどのキリスト教会、教区、カトリック教会などで教えられていません。
キリストを信じる者は自分を守るだけでなく、武装しなければならないという事実に明らかに言及しているためです。
ルカ22:35からです。
“そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。”
左派の多くが、信者が自分の身を守ることについてこのように明確に語られていることを除外して、イエス様を位置付けていますが、このようにイエス様はそれとは反対であることが分かります。
またイエス様は神殿に入るときに、テーブルをひっくり返したりして両替商などを追い払ったのです。キリストを平和活動家とかダライ・ラマ的な人物として扱う人にとっては、非常に過激な行動です。キリストに対してもっと過激な見方をすることができるのです。もちろん究極的には、人間の生命を守り、救うように運命づけられた方です。
ルカ22章の逸話から、イエス様は弟子たちに自分たちの衣服を売らせようとしていたことが分かります。古代の世界では、上着は様々な要素から自分を守るための最も大切なものの1つでした。また身分の象徴でもありました。上着を売るということは非常に大きなものを失うということだったのです。特に、私たちが持っているような現代の衣服を持っていなかったということを考えたらなおさらのことです。
キリストは剣を所有するためにそれを売るようにはっきりと語っています。それは明らかに攻撃のためのものではなく、弟子たちの身に何かが降りかかるとき、あるいは命が危険に晒される場合のためです。特定の目的のために剣を持つということです。
剣とは現代で言えば銃であり、人間の生命を防衛するために死をもたらすという以外に目的はありません。明らかに当時の剣は、農業に使われてはいません。剣は戦いのために使用されます。
自衛のために剣を持つという考えは、もちろん旧約ではとても強いものですが、新約でも非常に明確なものなのです。
このようなことを聞いたことのない牧師やクリスチャンに会ったとき、私はとても驚きました。
聖書的な観点からすると、またユダヤ・キリスト教の観点からも、私たちの持つ自然権や自然法、人権は特に保守派側ではそこに由来しているのですが、王としてのキリストという観念があります。それはクリスチャンと宇宙との関係、またはその人がこの惑星で割り当てられている自分の人生を歩んでいく上での力の連携に必要不可欠な特性です。
マタイ6:9でイエス様は弟子に命じました。
“だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。”
残りはもちろん知っている方がたくさんいるでしょうが、一般に主の祈りと呼ばれる祈りです。イエス様は、私たちが祈りの中で神様の王国が地上に来る日を楽しみに待つよう懇願しています。これはとても大切なクリスチャンの原則です。それは神様の王国が地上に来るということです。単なる天の王国や死んでから出会う天国というだけでなく、キリストが地上に王国を建設するときに、私たちが遭遇することのできる王国、人々が遭遇することができる王国、遭遇すると信じる王国です。
それはとても大切な概念であり、なぜかと言えば、そのために信者とユダヤ・キリスト教の枠組みの中にいる人たちが、待ちわびるようにならざるを得ないからです。何を待ちわびるかと言えば、神様が王となり苦難と独裁、抑圧が終わる日であり、私たちの道徳の指針を持った立場であり、キリストの内なる神様とキリストが治めると約束されている王国への忠誠と信頼を持った私たちの信仰生活です。
また、マタイ6:33でイエス様はこうも言っています。
“まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。”
信者、キリストにある者がまずやるべき事は、神様の王国を求めることだと言っているのです。
ギリシャ語のバシリアはバシリユスに由来しており、言うまでもなく王を表わす言葉です。
マタイ10:7でイエス様はこう言っています。
“行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。”
ルカ4:43でこうも言っています。
“「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」”
このような重要な聖句で、キリストが、自分が送られたのは神様の王国を説くという目的のためだと言っていることが分かります。歴史的に神様の王国が説かれるところではどこであっても、キリストと弟子たちが、当時ローマの権力の下にあった地域の権力者や国の権力者から、途方もない迫害を受けたということを私たちは知っています。
それはとても過激な教義だったので、信者を増やしたということだけでなく、中央集権の権力にとっては存続にかかわる脅威でした。私たちはそのような権力を天使長的な権力と呼びます。
マタイ14:23でイエス様はガリラヤ全土を回り、群衆に礼拝堂で教え王国の福音を説きました。そして病人を癒されたのです。聖書はやはり、キリストの福音を神様の王国の福音として示していることが分かります。
マルコ1:14。
“ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。”
イエス様が神様の王国の福音を説かれるところでは、癒しと悔い改めがありますが、政治的な激変もありました。これはもちろん、神学会やキリスト教学会では強調されていない場合が多いです。キリストのメッセージの性質は非常に政治色の濃いものであり、そのメッセージは政治的な力が強く、当時の世界で最も強力な文明ですら、この全く無名の人物から存続にかかわる脅威を感じていました。
マタイ9:35。
“イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。”
マタイ24:14。
“そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。”
マタイ25:34。
“そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。”
キリスト教の観点、ユダヤ・キリスト教の旧約、新約両方の観点から、人間の価値というものは神の形として作られ、最終的にその王国でキリストの共同相続人となることだと私たちは捉えています。
クリスチャンは社会を他と異なる枠組みで見ていますが、その理由というのはクリスチャンが、やがては地上にできる神様の王国へと向けた、王国の福音という考えを持つようになっているからです。その中で神様も、信者と信仰を持つ人々は共同相続人であると言っています。
現代の民主主義、世界中に広がった民主主義では、西洋の多くの人が君主制のことをとても否定的に捉えています。もちろんそれにはもっともな理由があります。つまり、ほとんどの君主国は非常に中央集権化されていたからであり、主人と奴隷、または農奴の制度を作っていたからです。現代の政治的投機家がネオ封建制と呼ぶものがあり、それは特に左翼がネオ封建制という形で作り直したいと考えている封建制のことです。
もちろんこのようなことは、神様の観点から見て神様が人間に意図したこととは正反対のことです。なぜなら神様は人間を自分の形に作り、支配、主権の祝福、つまり生育せよ、繁殖せよ、地上を主管せよという祝福を与えたからです。例えば私有財産権は聖句に根差したものです。人間に価値があるだけでなく主権に対する権利があるという考え。それは私有財産を持つ権利であり、共産主義国の共産主義の教義では不可能なことです。
西洋で最も大切にされている信念は、このような歴史的、聖書的な原理に由来していますが、見過ごされており、財産を所有しそれを守るという考えが西洋での当たり前の概念であると見なされることが多く、その由来や過激さが忘れ去られています。
様々な神学的、または政治的立場に応じて、人々が財産を所有し、地上の一部を所有することができるという考えを、左派の多くがひどく嫌っているということを私たちは知っています。
しかしこのような原理は、世俗的な伝統から来たものではなく、また多数派に支持される優先的行動からではなく、ある立場から来ていると西洋では見なしています。その立場とは歴史的に聖句であったのです。
ポストモダンの文化にそれほどまで支配されてしまうことは、現代の西洋人にとって大きな悲劇です。そこでは宗教的な過去から切り離されています。聖句から来る私たちの枠組みによって、私たちが共に発掘したこの短い時間で私たち人間の経験が組み立てられるのです。
私はいつもこのように信じているのですが、真剣な信者はみな、人権も自然権も超越的な宇宙の設計者のみに基づいていると信じています。その方は力強く、私たち以上にもっとたくさんのことを知っており、あらゆるものより偉大であり、すべての時間を超越しており、つまりそういったものは時間と物質の両方で作られたのであり、あるものを無からいつ創造するかを意識的に決めることができます。人権はそこから始まったのであり、結局人権は人間の精神の産物ではあり得ず、超越的な創造主の産物であるに違いないのです。
それが私たちに主権を授け、価値を与え、目的を与え、うぬぼれや身勝手さや、キリスト教の世界で言及されているような罪、人間としての悪からの救いをもたらしました。そのおかげで私たちは、もっと善なる神様のようになれるよう努めることができるのです。
聖書的な観点から見て、人権という観念、人間の価値という観念はキリストとその王国の福音において実証されており、言うまでもなく、私たちはその聖句をすべて見てきましたが、その王国がどのように治められるかはクリスチャンの思いにとって別の問題です。
神様の王国はどのように治められるのでしょうか。それは神様の性質、知性、個性、そして法とされるものに一致します。それらは神様の性質の延長です。
神様は泥棒ではありませんので、その延長として盗むということはありません。殺人犯ではありませんので、その延長として殺人を犯すことはありません。嘘つきではありませんので、延長として嘘をついたり、虚偽の証言をしたりすることはありません。
これらの法はこのような性質の延長でもあり、もちろんそういう理由から、キリスト教やユダヤ・キリスト教において、人権と未来の神様の王国を理解するためにそれが重要です。
どのようにして神様の王国は治められるのでしょうか。過去の王と君主国を調べてみると権力の集中があり、その結果として民衆の中でさらに階層化が進みます。そして最上階級ができて大部分の国民を支配するのです。そのためこれが、キリストが再臨する時の王国にとって大いに待ち望まれた形であるとは、とても言うことができません。
これは、現代において主権のために立ち上がっている信者の心の中で、重大な難問だと私は思います。というのも、ある聖句では、キリストが来られる時に大きな審判と激しい怒り、そして独裁と思われるようなとんでもないものによって治める、と示唆されているからです。
では信者はどうやってつじつまを合わせるのでしょうか。人は聖句と個人的な経験を通してキリストについて知ります。聖書にあるように神様は愛であると。
エデンの園の場面で分かるように、神様は子供であるアダムとエバに自由と主権を与え、その結果、神様とその命令を敢えて拒絶することを選択するような行動を取りました。
また聖書には神様は永遠不変であり、昨日も今日も永遠に同じだと書かれています。
では現代のクリスチャン、またユダヤ・キリスト教の思想家は、神様の最終的な地上での統治についてどのように考えるのでしょうか。さらに同時に、神様の善良さと、神様の王国が到来する時でさえ変わることのない神様の性質について、じっくりと考えなければなりません。
ここで、神様の王国について叙述しているいくつかの聖句に注目していただきたいと思います。
詩篇2:8からです。
“わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕くであろう」と。”
これらの聖句はクリスチャンが尊大に受け取り復唱するのではなく、主権は神様が与えた約束であり神様が与えた権利であることを、クリスチャンが理解するよう意図されたものです。
黙示録2:27
“彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。”
これもまた、クリスチャンが信じているように、キリストが地上に帰って来られ、鉄の杖で治めることに言及するものです。陶工の器が粉々に砕かれるというのですから、イメージは非常に力強くとても暴力的です。キリストに反対する国に対する、力強く非常に暴力的なイメージであり、それらが壊滅させされるということです。
クリスチャンは、このような非常に暴力的でほとんど独裁的に思える鉄の杖の聖句を、キリストの愛の性質によって、どのようにとらえているのでしょうか。
黙示録12:5
“女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。”
ここでも神様の統治は、ユダヤ・キリスト教の枠組みにおいて鉄の杖によるものとなるということです。
黙示録19:15
“その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。”
さらにまた、クリスチャンや信者、また信仰を持たずとも単にこの聖句を読む人は、このような統治を恐ろしいものであるとすべきか、それともそうではないとすべきか困るでしょう。
聖書では、キリストが再臨する時、鉄の杖による統治がまるで独裁的なものと思えるようなとてもおそろしい統治となると言っているように思えます。
神様とその性質、そしてキリストの性質に対して、それを愛の神として取り決める現代の思想家はどうでしょうか。
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私たちが犯罪を見るとき、私たちが文明を悩ませる様々な社会悪を見るとき、例えばアメリカで最も過激な左翼的な都市の中には、左に偏った人々によって運営されているところがあります。私の父であればそういう人たちを、共産主義者とか政治的なサタン主義者と呼ぶことでしょう。というのも、それらが本当の悪魔崇拝者が存続し、繁栄するように安全な避難場所を提供しているからです。政治的な枠組みを作って、中絶施設で子供を殺害するような事業を行う人々を保護しています。それを最も左翼的な政治家や指導者が支援するのです。
また、彼らは左翼の銃規制政策も支持しています。銃規制では、市民はその技術を利用して自分を守ることができません。自衛の世界で最も優れたものは、現状では銃だとされています。
市民の武装がかなり一般的である数少ない国の一つであり、銃の所有数が一億世帯以上
であるという立場でアメリカを見たときに、最もリベラルな地域の中には、家族や自分の生命を守るための銃の所有を認めない地域もあます。そのようなところは、最も人口当たりの殺人発生率が高いところでもあるのです。
一方、もっと保守的で市民の武装、市民の自衛を認めている地域では、人口当たりの殺人件数が劇的に低下します。簡潔なアメリカの統計でも、100世帯中に90丁の銃が保有されているとされています。
左翼の人々というのは、つまり最終的には共産主義、社会主義につながるわけであり、例えば金正恩は左翼です。(ベネズエラの)マドゥーロのような独裁者は左翼です。それで西側の社会では彼らは左翼だと言います。それはそのような政権を経験し、家族が殺されたた人々に懸念をもたらすでしょう。私の同胞もそうですが、多くの人の家族が北朝鮮の政権に殺されています。
アメリカでは100世帯に90丁の銃があります。私が親しみを込めて鉄の杖と呼ぶものである銃が100世帯に90丁です。
左翼の立場が正しく、殺人の問題が銃に基づくものであるならば、アメリカは世界で最高の殺人発生率となるでしょう。次点のスイスなどの国と比べて約2倍の銃所有があります。大雑把な分析でもアメリカは、世界で殺人発生率のトップ10にも入りません。世界で30、40、50、60、70、80位にも及ばず、現在90位台にあります。
デトロイト、ボルチモア、セントルイスなどのリベラルの銃規制都市を除外するなら、殺人発生率に関して上位から200位にも入らない国になるでしょう。
世界のほとんどの人々は、自国の政府と教育機関から、銃は危険なものであり犯罪を生み出すものだと教育されています。これは、銃が正しい人に所有される場合には真実とは程遠いのです。銃が法を順守する人の手にある場合、統計的に社会はより安全になり、殺人発生率は落ち込みます。おそらく今日の講演者から、もっと正確な統計を聞けることでしょう。
全ての人は自分の価値と値打ちを神様との関係によって見出すというのが、私の見方であり、私の父の見方です
国民としても個人としても、神様を信じるか否かは個人的な意思決定の1つですが、それは次のような現実から私たちを引き離すものではありません。私たちの生命に意味があり、私たちの生命に価値があり、私たちは直感的に正しいことと間違っていることの違い、善と悪の違いが分かり、抑圧されている人々が解放されることを望むという現実です。
私たちは人々が暴力的な侵入や、一般の個人の平穏な生活を自己の利益のために搾取しようとする暴力的な人物から、自衛することができるようになることを望みます。
私たちが自然に持っているこのような願望は全て、天におられる父に由来するものだと私は考えています。私たちはその天の父の形に創造されています。またキリストが神様の戒めを2つの単純なことに要約したように、自然に慈悲を求める衝動と、神様を愛し隣人を愛そうとする衝動などもあります。
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それらのことは、責任を持って銃を所有することにより人を守ろうとする人に要約されると思います。
神様の最終的なこの世の統治を、鉄の杖と神様の本当の性質によって取り決めることができるようにするのが唯一の道です。神様の性質は時がたっても不変であり、正義の神であり愛の神であることは変わりません。神様は貧困にある人に優しく、しかしまた自由意思という贈り物を尊重しています。それは被造物である人間に与えたものです。
私たちの権利と自然法、自然権が、その本質が愛であり善であり正義である超越的な創造主に由来するものだということを理解するなら、神様の被造物である人間が、通常は政府や官僚にのみ与えられている権力に対して、責任を持つということも信じなければなりません。
普通の市民が、王の王であり、主人の主人である自分たちの創造主が付与した主権を目にすることができる時が来ました。
共同相続人、本質的に王と王妃として神の王国で神と共に立つのです。そして鉄の杖で国を統治しようではありませんか。征服するためではなく、平和と安定のために。人類が搾取者なしに、また自分たちの生命に対する暴力的な割り込みや暴力的な侵入を受けることなく前進できるように。
聖句では「天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」と言っています。あらゆる人種、国家、宗教の市民が、武力によって市民を傷つけ搾取しようとする暴君、独裁者、権力、そして国内外の敵から自分を守ることができるようにするために、力を所有し、人権を持つことが必要不可欠です。
市民こそが私たちの共同防衛のための最大で最重要な守りなのです。
(音声が途中で途切れているためここまでとします。)
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「お父様は死んでいない」スイスでの質疑応答から

翻訳:サンクチュアリNEWS管理人

実際、こうしてヨーロッパで主権市民同盟の会議をも開くことができました。
少数のメンバーの参加とはいえ大きな歴史的出来事です。
いいですか、神様はいつも少人数のグループに働いてこられました。

少人数グループに。アメリカ革命(独立)はどうでしたか。33%が(イギリスからの独立に)賛成、33%が反対、どちらとも決めかねている煮え切らない人々が残りの33%を占めていました。・・・ああ、どうしたらいいだろう、英国人は特上の赤いコート(イギリスの軍服)を着ているし・・・英国は豊かだし、ここでは英国より少し自由だし・・・今の家庭連合の人たちと同じです。
こっちもよさそうだし・・あっちもよさそうだ。
独立当時、33%つまり3分の1の人が「イギリスと戦おう」といい、また3分の1が「いや、やめとけ豊かなイギリスに付いているべきだ」といいました。そして残りの人々は「わからない、わからない、決められない」と。どこかで聞いたような話でしょう。よく似た話を。
結局、実際に戦ったのはたった3%の人々です。それを33%が支援しましたが、現実に戦ったのは3%でした。その3%が(当時)地球上で最高に訓練された軍事大国を打ち破ったのです。この歴史的出来事を通して神様が教えようしていることは、少数の集団が― マカバイ戦争もそうでした。ユダヤ人のうちごく少数が戦ったのです,ある戦闘ではたった1000人で3万のローマ兵(訳注:セレウコス朝シリアの兵)を相手にしたのです。ここで奇跡が起こってユダヤ人が勝利しました。一部の領土は失いましたが大半は守ったのです。しかもアンティオコス4世エピファネス(紀元前215年? - 紀元前163マカバイ戦争を引き起こしたセレウコス朝シリアの王)をも倒し、神殿からサタンの像を追い出しました。神を讃えましょう!
本当に少数の人々でした。しかし命を投うつだけの勇敢さをもって戦う人はいつも少数です。神様はその少数をもちいて、歴史を変えられるのです。
イエス様と12弟子はどうですか。イスカリオテのユダが裏切ったので実際は11人です。全く小さな集団ではないですか!この部屋に何人いますか。70人ほどですか。
もうこの時点で、イエス様のグループ、12人の10倍もいるのです。

想像してみて下さい。12人がどれほど小さいグループであることか。実際は11人です。しかしその11人が歴史を完全に書きかえたのです。
これが現実です。この現実は、少数のグループの背後に神様の力が働いていることを証明しているのではないか。もちろん、彼らが善の側にいることは当然です。
真に正しい側と、真に誤った側があります。戦闘で正しい側に立つ者は「道徳的に優位な立場に立つ」のです。どちらかというとこれは社会学的な判定、戦闘の社会学的な解釈です。

つまり戦いの場において、戦う理由、全員の命を賭しても余りある道義的理由が必要だというのです。兵士の「士気」という言葉があるでしょう。兵士の感じ方。軍人と聞くと、何か、荒々しい、感情をもたない人間、「皆殺しにしてやる」、そういう印象を抱きがちですが、実は兵士の「士気」というものがとても重要なのです。なぜ人を殺し、なぜ戦うのか、これが重要です。
自分達が善なる目的のために戦っていると思えない時、気分が悪くなり抑うつ的になります。戦いたくなくなるというのです。だから荒くれ者の大男が人を殺すときでさえ、その人間の情緒が大きく関わってくるのです。兵隊たちにも「道徳的に優位な立場」が必要なのです。どういう意味かというと、歴史の正しい側に立つ必要がある、戦っているその目的が正しくなければならないのです。真実でなければならない。
自分が奴隷であるかどうかの見分け方を教えてあげましょう。
奴隷精神の人はこういいます。
「もし私が死んだら、この祝福を受けることができません」
こう言う人は奴隷として考えている。
王、王妃はそのようには考えません。
王、王妃は「王統は永遠性をもつ。消滅しない」と考えます。
なぜなら血統を通して考えるからです。
たとえば、お父様は今、霊界におられます。しかし私という相続者を通して生き続けておられます。
お父様は生きておられるのです!お父様は死んでいません。

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愚かな家庭連合はお父様が死んだと思っている!愚か者が。
このがらくたのような信仰!
お父様は決して死にはしない、永遠に生きるのです!
決して死にません!愚かな者たち!
それがわれわれとの違いです。お父様は生きておられる。
私が死んだら、三代王を通して生き続けられます。もしあなたが次の世代の天一国の人々と共に生きるとしても。

王の本質、心構えそして霊性は奴隷のそれとは異なっているのです。
奴隷は多くの場合、子をもつことが許されませんでした。
現代では納得済で子供をもちません。(笑)
しかし以前、奴隷は子供をもつことが許されなかったのです。
だから奴隷精神には血統という考え方がありません。伝え継ぐものが何もないのです。
自分も奴隷をもつことはできるでしょう。しかし奴隷は、どんな犠牲を払ってもここから逃げ出したい、あるいは黙って受け入れるか・・結局は自分のことだけを考えるのです。
王家は違います。王は、自分は死なずに継続して果たすという思いで将来を見据えます。皆さん全員が天一国の王、王妃としてこの考えは非常に重要なことなのです。

王家の心構えをもたねばなりません。
「もし死んだらどうしよう」・・だからどうしたというのです。
ある質問がありました。日本だったか・・。
ある姉妹は90才を超える年齢だというのです。2月の祝福を受けに行きたいのですが、ペンシルバニアまでは行けないと。しかし王と共に式典に参加したい。
私はこう言いました。あなたは奴隷のように考えている。
決してその老女でおしまいになる訳ではないでしょう。その人、その家庭の相続者、後継者がきて儀式を最後まで成し遂げることができます。分かりますか。
それは継続するというのです。途切れることはない。
王は不滅です。しかし奴隷は死にます。
この違いが分かりますか。

王、王妃は永遠の存在ですが、奴隷は死ぬということです。
あなたはどっちですか?どちらの精神を持っているのかというのです。
ひょっとして奴隷精神をもっているかもしれません。もしそうなら、私はイエスの御名によって命じる、悪魔の霊よ去れ!といわなればなりません。(笑)
王権はまったく別のものです。いいですか、まったく異なるのです。
天一国の民、王、王妃は今までとは違った考えで暮らさなければなりません。世界のいろいろな王室をみて「ああ、あのような壮麗な宮殿に住んでいるから私より正統性がある」という見方をしてはいけません。私は韓オモニから離れてすべて失ったときオバマケアの世話になったこともあるのです。失業してオバマケアを受けていました。王宮で何十億ドルというお金を動かしていた位置からそうなったのです。

なぜなら、お父様が私に相続されたからです。しかしその困窮状態がお父様の後継者としての地位を少しでも傷つけたでしょうか。そんなことはありません。
むしろ私の話により力を与え、私の生涯を韓流ドラマのようにしました。(笑)
森の中に入って、ブッシュクラフトをしていても、それでもお父様の後継者であることに変わりありません。私の周りに武装具がそろっているからではありません。武装具のおかげなどではなく、お父様から祝福の油を注がれたからです。ただそれだけが私に二代王としての正統性、息子に三代王としての正統性を与えるのです。
これが世界のどの王室にもない正統性を与えてくれるのです。

彼らのような王宮はありませんけれども。あのイギリスのブルージュエリーはなんといいましたか?なんだかわかりませんが、それがどうしたというのです。
そんなものに正統性はありません。サタンの王室に与えられたサタンの印に過ぎません。
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