2017年12月1日金曜日

「揺り動かされない王国」2017年11月26日<ポイント訳版全文>

「揺り動かされない王国」The Unmovable Kingdom

2017年11月26日<ポイント訳版全文>



サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載(ポイント)です。字幕化は2nd Israelさん。

教会ブログであるため御言をコレクションしています。聖殿食口以外、外からも多く読んで頂いています。ありがとうございます

The Unmovable Kingdom   November 26  2017   Rev. Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

翻訳:BAMBOOS

神主義が出て来て働き始める

(Vimeo 30:53)
ヘブル人への手紙12章25節から29節を読みます。
(ヘブル人への手紙 12章25-29節)
25: あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。26:あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。27:この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。28:このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。29:わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。
今日はまず、トロントの心理学教授であるジョーダン・ピーターソンによる講義について話します。
聖書とキリスト教文明に関して、学問が大きく変わったことは驚くべきことです。10年、20年前には、学者はキリスト教や宗教をばかにし、神話だと考えていました。しかし、現在、科学者の25パーセントは神を信じていると言っており、80年代からすると大きな変化が起きています。当時は99パーセントが無神論者でした。
「科学者のコミュニティ」の中でさえ、甚大な変化があったのです。すべての証拠が知的な精神を示すものになっています。実体のない、時間と空間を超えた永遠の存在が、信じられないような知識を持っているというのです。
あらゆる数学的、不変の条件があり、宇宙をファインチューニング(宇宙初期設定の精妙なる調整)によってまとめており、すべてはランダムに配置されたものではないからです。電子や陽子といったものですべて繋がっています。
科学者が研究を深めるほど、宇宙には背後に知的な精神があると認められるようになっています。
(Vimeo 37:13)
今、客観性や唯物主義に基づいて宇宙を調べ、なぜそれが存在するのかという証拠を見つけようとする人たちでさえ、現実を直視せざるを得なくなっています。80年代、90年代には科学者が傲慢で、無神論を確信していましたが、それは考えていたほど確固たるものではありませんでした。
現在、トロント大学名誉教授のジョーダン・ピーターソンのような人が、キリスト教を称賛するようになっています。それでも自分たちはクリスチャンではないと言っています。
有名な無神論者の哲学者(アントニー・フルー)は、亡くなる直前に神様を信じると言い出しました。すると、無神論者のグループの人々は彼のことを裏切り者だと言いました。
今、学術界では、キリスト教に対する敬意が信じられないほど高まっています。ジョーダン・ピーターソンの聖書シリーズを強くお勧めします。彼は信者ではありませんが、聖書はとてつもなく素晴らしいものだと考えています。
彼は聖書をインターネットになぞらえて説明しています。つまりハイパーリンクされた文章のようだということです。彼はグラフを作っていて、それらが非常に数多くの様々な色のアーチを形作っています。それで、聖書が相互にハイパーリンクされていることを示しています。すべての言葉が他の言葉にリンクされています。実際にクリックできるハイパーリンクではないだけで、あらゆるコンセプトが他の様々なコンセプトにリンクしているのです。
聖書自体がそのように内部で相互に関連を持っており、それがどのようになっているかをまるで芸術作品のような図で示しているのです。
しかし、それだけではなく、私たちも指導を受けましたが、基本的には宗教に対して、特にキリスト教に対してあざ笑うかのようなハーバードの歴史的な批判手法の提唱者に対して、とても批判的なアプローチを取っています。
(Vimeo 45:11)
あらゆる権力構造は私たちに嘘をついてきたのであり、教義の中で本物のサタン主義が栄える空気を作り出し、実際のサタン主義に気づいているかどうかに関わらず、霊的存在としてのサタンを信じるかどうかに関わらず、それとは無関係に、政治的なサタン主義が実際に栄えることのできる環境を作り出しています。
それは、5,400万人の赤ちゃんを殺すという中絶のことであり、実際に人間を犠牲にして殺すという、本当のサタン主義者が望む文化を受け入れているということです。そして性的に逸脱した形態、同性愛の政策、トランスジェンダーの政策、性同一性障害の政策のための環境を作っています。私がこういう話を、毎日大声でまくし立てていると感じるでしょう。
しかしこれが、私たちが現在生きているシナリオであり、神主義が出て来て働き始める背景なのです。神主義が重要なのはそれが正反対だからです。神主義は、本当のサタン主義が存在できるような文化、文明、空気というものを許すことはできません。
そしてもちろん、自由、主権、責任、そして神を愛し隣人を愛する文化です。神様と隣人を愛するので、訓練することができます。羊を守る牧羊犬になることができます。
このような文化が、もちろん憲法がその代表ですが、天宙的なレベルで起きている本当の戦いです。
今話していることはすべて、27節のことであり、「震わされ」ても「震われない国を受けている」ということです。心の中にある王国であるというだけではなく、終わりの時には地上の実際の王国となります。
クリスチャンであるなら、イエス様が再臨して王国を築き、鉄の杖で世界を統治すると信じているはずです。クリスチャンとしては、民主主義自体を信じることはできません。なぜなら聖書に、王の王が再臨して王国ができると書いてあるからです。好色者、放縦な者、同性愛者は王国から追い出されるのです。
ですからクリスチャンであるなら、民主主義が理想世界の最終的な形態だとは言えません。お父様もいつもそのように言っておられました。
2008年のBBCの論文では、アメリカは既に寡頭政治の状態にあるとされていました。すでに民主主義ですらありません。
民主主義の現実として、長続きしないということがあります。なぜならある時点で、衆愚政治となり、多数派が少数派の意見を葬り去ることを決断するからです。
(Vimeo 55:15)
ピーターソン教授が、ロゴスについて話し合っているのを見つけました。西洋文明がロゴスに基づいて、どのように作られたかということです。それがなぜ興味深いかと言えば、聖書には「男と女は神様の形につくられた」とあるからです。すべての人間が神のような要素を持っている、という話が、5千年前に現れたということは、まったく狂ったことであるというのです。なぜなら、人類の歴史を調べると部族主義というものがたくさん見られます。そしてその中には二元論、二元的弁証法などといったものがたくさんあり、「我々」対「彼ら」というような考えがあります。
そしてユダヤ・キリスト教文化では、信者であろうとなかろうと、人間はやはり神様の似姿に作られています。犯罪者であっても、神様の似姿に作られているのです。古代の世界では、それは信じられないような言葉です。
例えばヒンズー教のカースト制を見てください。すべての人間は同じではありません。神様の似姿ではないのです。動物より悪い、最下層民がいます。これは、歴史を通じて一貫したものではありません。エジプトには、奴隷の階級と神のようなパロ(ファラオ)の階級がありました。
基本的にはあらゆる文明は、政治的サタン主義が具現化したものです。封建制であったり、共産主義であったりしますが、それは超エリート階級や天賦の、悟りを開いた階級といったより大きな原則に繋がっていきます。そしてそれがすべての人を支配します。

最後は、剣ではなく、ロゴス(言葉)が決める

基本的にはあらゆる文明は、政治的サタン主義が具現化したものです。封建制であったり、共産主義であったりしますが、それは超エリート階級や、天賦(てんぷ)の悟りを開いた階級といったより大きな原則に繋がっていきます。そしてそれがすべての人を支配します。
そしてこれが、どのような宗教、政治を見ても、共通の一貫した傾向なのです。
しかし、ユダヤ・キリスト教の世界では、それが私たちの文化の一部になっているので、とても甘やかされています。
第一に、神様は男と女を神様の似姿に想像しました。そして第二に、ヨハネによる福音書1章1節、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」ですが、非常に興味深い概念、ロゴスの観念です。ロゴス( λόγος )、つまりみ言は大変な概念なのです。強大な神様の始まりが、み言であったというのです。もちろん、キリスト教の背景において、それは地上に来られるイエス・キリストとして表されるものであり、神様のみ言が肉となったものです。
そして、「言は神と共にあった。言は神であった」というところに注目してください。つまり、ロゴスにとても大きな力が投入されていたのです。人類の歴史を見てみれば、問題に取り組むには二つの大きな選択肢があります。一つは剣によるものであり、もう一つは言葉によるものです。
それで文明が、どうやって人が必ず直面する問題を解決するかを決定するのかということです。剣で解決するのか、言葉で解決するのかです。お互いに殺し合うことのないように平和を実現するための、社会の基本的な側面とは何であるのかと言えば、西洋の文明では論理的根拠のようなものでした。そしてそれはどこから来るのかというと、すべて言葉に基づくものを基礎としているのです。
神様自身がロゴスに基づいています。私たちすべてを超越するものがあり、私たち全員が恩義を受けており、また私たちも自分の考え、観念、計画を表現する能力を持ちます。そして討論や議論によって空気の中に投入し、言葉に基づいて決定することができるのです。力によってではありません。
力を結集させて自分に反対する者すべてを殺してしまうことで、自分が正当化されるというのは、チンギス・カンがやったことであり、中国の皇帝がやったことであり、アラビアのスルターン(王)がやったことです。
根本的な違いについて話しています。み言としての神様を見てください。神様がすべてになり、宇宙のすべてに内在して基礎となります。それがロゴスであり、認知的な思考を言語化します。言葉として発した発言が、現実を示すようになります。
神様の知的な宇宙的な心の中にあったことが、言葉として発せられ、存在するようになって、山や川、水といったものになるのです。
同じようにして、私たちも神様の似姿として、自分は3年後、5年後の将来に、この領域でこういうことをしたい、この目標、使命を遂げたい、と言うことができるのです。私はそれがしたい。それこそが自分にとっての乳と蜜の流れる地だ、と。
3年後、5年後のことを考えると、想像力と認知能力を用いて心で危険な道をたどることができます。例えば、今見えている崖を下ろうとするなら、何が起こるかというと、滑落して重力の速度に従って、卵が床にぶつかるように地面にピシャっと叩きつけられるでしょう。
心の中で自分が死ぬことを想像できるのです。現実では死ぬ必要はありません。それはすばらしい生存のためのメカニズムです。人間は何が起こるか想像できます。それによって実際にそれを行わずに済むのです。
このような心の力が、考えを言葉にして形作り、言葉を発すれば他人の心に影響を与えるのです。このようなロゴスの力が、キリスト教の世界では、すべての基礎となっています。ユダヤ・キリスト教の世界では、言葉、ロゴスが神様と共にあるだけでなく、それ自体が神様なのです。
ですから西洋では憲法が非常に重要です。それにはたくさんの言葉が入っています。誰もがこの憲法の世話になっています。アメリカの大統領から最も貧しい人に至るまで、すべての人が世話になり、それで問題ないということになっています。すべての人がロゴス、または言葉に従属しています。少なくとも一定の基本的な文明に対して、私たち全員を一つにつないでいるのです。
これは非常にユニークな面であり、それは、神様が、知的な心を持つ、知的な人格的創造主が、すべての不変の宇宙を創造し、宇宙がそこに生命を持たせることができるようにする能力を創造したということです。そのすべてが神様の心にだけあるのではなく、そこには言葉があります。言葉が心の中から投影されて行動に移され、明白な現実を創造するのです。
ロゴス、または言葉の中で根本的に傑出したものです。それは、例えば討論の伝統の中核の一部です。または、精神の闘争です。どちらが大きな軍隊を持つかということではなく、精神による戦いなのです。それが民主主義や共和制の枠組みとなっています。
同意しないからと言ってその人を殺すのではなく、正当な法的手続きを行います。例えばアメリカの基本的な法律学です。例えば大多数がこの人を殺すべきだと言っても、有罪だと証明されるまでは無罪です。それが、すべての人間を神様の似姿としてとらえる文明の基本なのです。

ユダヤ・キリスト教が去ったあと、その巨大な空白を埋めるもの

(Vimeo 1:08:14)
ニーチェは、「自分で自分自身の価値を作り出さなければならない」と言うような思想家になりましたが、警告していました。キリスト教に由来する、神の理想という欠かすことのできない基本的な意味を持つ構造を取り除くなら、私たちはみな、理性的になることはなく、完全な破滅がもたらされると考えていました。そして、20世紀に何百万もの人が殺されると予測していたのです。
なぜなら神様を取り除いたことで、何か別のもので置き換えなければならず、病的なサイコパス的な思想が出てきて取って代わるからです。そして実際にそれが起こり、ニーチェはそれを1800年代に予言していたのです。
(Vimeo 1:12:56)
この西洋文明、または理性的な言説の不可欠な基本的構造が置き換えられるとき、それはニヒリズム(虚無主義)によって置き換えられます。つまり、意味のあることは何もないという大きな絶望です。私たちは、大きな岩の上に浮かんでいるだけの進化した猿だというのです。何をやっても無意味だということです。
この限りない失望のサイクルは、途方もない苦痛、苦悩、霊的な不満を生み出します。そして他方では、病的でサイコパス的な過激な思想が出てきます。それは権力に焦点を当てたものであり、最終的にはマルクス(主義)ということです。「宗教はアヘンだ」ということです。
そして、これによって基本的な構造が置き換えられると、新しい形態の思想のようなものを持つようになりますが、それは実際にはカルトのような、宗教のようなものです。
それは国を支配することを求め、中央集権化を求め、すべての銃を自分たちのものにして国民を武装解除し、自分たちの思いのままに行うことができます。
彼は、このような形而上学的な根本的で基本的な構造のことを、神の理想として言及しています。それはユダヤ・キリスト教の神の理想です。このロゴスと、すばらしい知性を持った賢い存在が、私たちの住むこのすばらしい宇宙を創造したということです。彼はそのように言及し、このような集合体を夢のようなものとして例えています。夢の国、または夢の世界と呼んでいます。
(Vimeo 1:18:48)
彼が夢の世界と呼ぶもの、つまりユダヤ・キリスト教の枠組みを取り除いたとき、その巨大な空白ができます。西洋文明に対する大きな失望も生まれます。職場に行って、その仕事が自分を定義することになります。どのような仕事であるか、その仕事が価値を生み出すようになります。「母親や主婦なら価値がない」とされ、それらはすべて、惨めな昔ながらの奴隷の役割とされます。「仕事をすれば価値がある」「大企業にいれば価値がある」「管理職になれば価値がある」と言って。すると何が起きるでしょうか。女性は落胆します。同じように幸せにはなりません。
女性の心は、常に戦うことが組み込まれているわけではないからです。冷たく無感情であることが組み込まれていません。組み込まれているのは、暖炉や子供たちのそばにいることであり、その間に男性が狩猟に行っていました。
(Vimeo 1:22:33)
私たちの法律制度と、論理と理性そして証拠を求めるようなやり方の基礎となっている、基本的なユダヤ・キリスト教の宇宙的な枠組みを取り除くと、どうなるでしょうか。それらは独裁的な階級組織ではなく、能力に応じた階級組織を作り出すのに役立つものです。
自由と責任の国であれば、パレートの法則からも、人々はそこに留まりたいと思います。盗まれたり、強制的に税金を取られたりすることがないからです。それによって全員に富が生み出されます。海水面が上がればすべての船も上がるのと同じです。船の大きさに関わらず、すべての船が上昇します。
しかし、マルクス主義や共産主義では、悪意を持った被害者意識があり、「ほら、あの人はあなたよりもっと稼いでいる。それはあなたから盗んでいるからだ。力を貸してくれたら取り返してあげよう」と言うのですが、これが社会主義と共産主義の嘘なのです。若者はそこにはまってしまいます。蛇の誘惑のようなものです。
ですから民主主義は歴史的に、約300年を一つの時代の区切りとして必ず崩壊します。それは、ある時点で多数派が支配するからです。共和制には多数派が消し去ることのできない権利があります。ですからアメリカは民主主義ではなく共和制なのです。共和制では、少数派はいつも多数派から保護されます。
なぜなら建国の父がアメリカを発見したとき、彼らは少数派だったからです。クエーカー教徒などの様々な教派がカトリックに迫害され、「異端だ」と言われていました。私が言われているのと丁度同じように。それは苦になりません。私たちを殺しに来ようとするようなクリスチャンはいません。
(Vimeo 1:30:33)
人間には目的が必要です。そのように組み込まれています。私たちは目的を求めるのです。神様には目的があります。私たちには、一時的な喜び、一時的な願望の達成を超えるものが必要です。
西洋の中産階級以下の人は、3万ドルでも4万ドルでも、それ以上のお金が増えても、何の問題も取り除かれることがないという調査結果があります。超お金持ちの人々から、中産階級、中産階級の下層の人々を調べても、何の違いもなかったというのです。離婚率も同じ。親子間の争いも同じ。病気にかかるのも同じです。お金では解決しないということです。
左翼は常に資本主義に依存しています。「自由市場とはお金のことだ」と言っています。お金にとても焦点を絞っているのです。貧困の解決には、連邦政府の政策にもっとお金が必要だと言います。犯罪減少のために何が必要かと言えば、連邦政府の政策にもっとお金が必要だと言います。中退率の改善にも、連邦政府の政策にもっとお金が必要だと言います。
もう一人の心理学者であり思想家として、現代の西洋の心理学的霊的な状況に影響を与えた人物として、カール・ユングがいます。彼もニーチェの弟子でした。
ユングは、人は夢の中で生きているようなものだと言っていました。神話的、叙事詩的な夢です。フロイトは無意識について、副人格が漠然と一つにまとまったものだと言っています。おかしいとは思いませんか?それでそれぞれの人格に、それぞれの意思と願望、理性があり、それがすべて一緒になったものだというのです。
しかし、ユングはニーチェに同意していません。ニーチェは自分で自分の価値を作り出せると言っていました。神を排除して、何が正しくて何が間違っているのかを集合的に決めなければならないと言っていたのです。私の場合、仏教をやめた理由がそうでした。
仏教が主張する阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の悟りの境地は、善と悪を超越したものです。つまり、自分で善悪を判断するということです。善悪を自分で決めることはできません。それは、ヒトラーになるということです。神様の本質が、何が全で何が悪かを決めるのです。神様は真実であり、うそつきではありません。神様は泥棒ではなく、誠実です。
ユングは、自分の価値を生み出してやがて超人となると言ったニーチェに同意しませんでした。それは、あらゆる異教の思想が最終的に向かう危険な思想です。道は二つしかありません。ですからイエス様は、「私が道であり、真理であり、命である」と言われました。イエス様の道か、それ以外の道です。それ以外の道はすべて、超人という同じ山へと向かっています。
ユングはそれに反対し、それを行えば途方もない災難が起きると言いました。そして実際に起こったのです。
「人間は、意識の管理を超えたものに深く影響されている。」興味深いことです。潜在意識という考えでは、基本的に自分の支配を超えたものによって支配されているということです。考えてみてください。これらの副人格が、自分の意識の支配なしに、あなたを支配するということです。絶え間なく戦い、つかもうとしているのです。
私たちの人格の中には、昔から天使とか悪魔とか呼ばれるものがあり、心や精神の中で戦っています。サタンの誘惑といったようなものです。このような悪魔と関わっているのだということが分かっています。
人間の本質は、いつも幸せを感じる理想郷のようなものではありません。すべての人間が苦痛を感じ、実際に善ではなく悪意に傾いています。
ユダヤ・キリスト教の文化を取り除けば、その空白はニヒリズムとなって、「善を行う目的は何か?何もない。みんな結局死ぬ。雄ライオンが複数の雌ライオンと交尾しないと言うのと同じような意味しかない」ということになります。もし、進化生物学を信じるのであれば。
人間は、意識の支配を超えたものから深い影響を受けています。キリスト教では、目に見えない霊的な世界がある、と言っています。霊があり、悪魔がいます。イエス様の行ったミニストリーの33パーセントは悪魔を追い出すことでした。
それからユングは、夢と神話という考えに入っていきます。「夢は思考と同じように、不確かな世界で何かを形作ろうとする試みである。」思考はどこから来るのでしょうか。心に浮かぶ考えはどこから来るのでしょうか。自分から出たものだという確信がありますか。どの人格から?どの副人格から?その副人格はどこから?どこからやってきて、あなたの灰色の物質を支配するのでしょうか。どうやってあなたのしわの拠った灰色の脳を支配するのでしょうか。
思考と同じように夢も、無意識の心のようなものから泡のように出てくるのだというのです。それは支配できるものではなく、自分で作りだしているのではありません。
夢を解釈する人がたくさんいて、記憶のようなものだとか、再生しているようなものだと言いますが、夢は、筋の通った構造をもっていることがたくさんあります。非常に明確な経路を持っている場合があります。夢に参加することができる場合もあります。始めと終わりがあることも多いです。必ずというわけではありませんが、非常に一貫していて筋道がある場合も多いのです。昨夜のことですが、私は夢の中で、「神様、あなたはこの夢で何を悟らせたいのですか」と尋ねていました。夢の中にいるということが分かって、そう言うことができたのです。

私はその場にいたのだ。この間抜けが!

 

聖書では、未来の出来事についての啓示であったという話もあります。夢は考えの生まれる場所だということができるでしょう。

夢は人間の考えを刺激するものであり、こういうビジョンや想像を抱くことができるという心の探検だというのは、興味深いことです。
夢の中で神様に出会ったことのある人はいますか。たくさんいますね。
お父様が、私たちに自分の自叙伝を書くように言われたことを覚えているでしょうか。みなさんの物語が重要です。サタンはあなたの物語は重要でないと言いますが、それは重要なのです。それは、人間が単なる血肉ではなく、物語だからです。
現代人が神様との関係を捨てるとき、それは自分の物語を捨てているのです。そういうわけで、いつも新しい物語を作り直そうとします。もちろんそれは、もっと苦痛と損害、悪意を受けることにつながります。
興味深いことは、このような教授たちが有神論的になって、「これまでの50年にキリスト教のことを悪く言い過ぎた」と言っているということです。
(Vimeo 1:50:5)
ご存知のように今週、私は証言させられました。10時間半にも及びました。9時ごろに行って、7時半に帰りました。ばかげたことです。
彼らは自分たちの話を取り繕おうとしていて、それで裁判に勝ってお金を盗もうとしているのです。話を取り繕っているのです。郭グループは、お父様がぼけておられたのでお金を盗んだのだと言っています。お父様のためにやったのだと。
役員を変更して、お父様の命令に歯向かったのだと。お父様が3度私に王冠を被せ、世界会長となった後のことでした。それであらゆることが起きたのです。UCIの名前と統一教会の関連団体などをすべて奪いました。彼らは話をでっち上げて、お父様は頭がおかしかった、ぼけていたと言っているのです。
「文先生は、人前であなたの顔を平手打ちしましたか?」
「そうですよ。それがどうかしましたか。私のお父さんですから顔を叩くこともあります」
「文先生は人前で服を脱ぎましたか?」
私は、父はエデンの園について教えていたのだと答えました。「エデンの園では恥ずかしさはなかった」と語っていたと伝えました。「父は、92歳でした。人前でストリップショーをしようとしていたのではありません。エデンの園について話そうとしていたのです」と言いました。『爺さんが、恥ずかしくないなら、それを見ているお前も恥ずかしくないというのか、この馬鹿め』・・・実質的に相手側弁護士はこういったのです、そして「あなた(亨進ニム)は別のストーリーを作ろうとしている」と。
「私はその場にいたのだ。この間抜けが!」
それは、話を奪い去っているということです。サタンの子供ではなく、神様の子供だ、という最初からある神様の戦いの話を取り去っています。人間の責任分担の話を取り去って、被害者意識だ、と言い、救い主はイエス様でなく、神様でなく、ルーシェルだと言います。
(Vimeo 1:53:25)
もう一つ興味深い話をしているのですが、それは西洋の世界で祈りが無くなってきているということです。少しずつ蝕んでいく、破壊的なものです。祈りが無くなってきています。
もちろん今、Z世代という8歳とか10歳の子供がいます。その世代は非常に保守的になっています。60年代の頃、両親はとても保守的なクリスチャンで、それが悪魔崇拝者になりました。今、悪魔崇拝者が公立学校を支配し、グーグルも検閲され、大学での言論の自由もなくなりましたが、Z世代の若者は、「悪魔崇拝者になりたくない。自分はクリスチャンだ。イエス様を受け入れてみんなを怒らせるのだ」と言っています。「サタンを崇拝しろというのは止めろ。イエス様を崇拝して人を怒らせてやるんだ」と。
(Vimeo 2:01:37)
私たちの文化に祈りがなくなったことで、文明の精神が深く傷つけられました。休暇を取ってもたくさんの広告に攻めたてられます。時間はあるのですが、まるで時間を超えた創造主との時間がないように感じさせられます。
それは非人格的な形而上学的な宇宙ではありません。人格を持った存在です。私たちを愛し、私たちとかかわりを持ちたいと願われ、私たちのすべての欠点と罪をご存知です。そして私たちに振り向いて欲しいと願っています。
「私たちは、霊的なもの、心理学的なもの、精神的なもの、感情的なもの、知的なもの、意志、といった非常に多くの力が組み合わさったものです」「また、他の個人を超えた影響力も含まれます」それは、家庭、家族、同僚、悪魔、天使、霊のことです。
「私たちは自己中心的であり、悪意を持っており、生活の中で苦痛を経験します」
ニヒリストが苦痛を感じるとき、真剣になるのは難しいことです。なぜなら苦痛は、非常に大きな現実を伴い、自分は生きているということを否定できないような過度な感覚を伴って、目の前に突き付けられるからです。
そういう理由で、神様は私たちの人生で苦痛を感じさせることがあります。聖書では痛みがなくなるとは言っていません。あなたの目から涙をぬぐうと言われたのです。すべての苦痛を取り除くとは言いませんでした。
神様は私たちが痛みを感じるようにされているので、自分が存在しないものだと錯覚しないで済むのです。私たちは自分が存在すると経験することができ、なぜ自分は存在しているのかと質問します。それは存在に関する疑問と言われるものです。
真実に向かってそれを調べ続けていくなら、最終的には神様へとつながっていきます。科学によっても、今すべての科学者が有神論者になろうとしています。
神様が苦痛を経験するようにしてくれて良かったです。それは自分が存在することに気づくからです。どれだけ苦痛から逃げようとしても、そこにたどり着きます。一時的な解決策や麻薬、セックス、アルコールではできません。同じように惨めでひどい気持ちのままです。
最終的に自分が存在しており、虚無的な空白や空間にいるのではないと分かったとき、悟ります。「神様、なぜ私は存在しているのですか。創造主がいて、私は神の子供ですか」と質問し始めます。存在に関わる疑問を投げかけるようになるのです。真実の探求の始まりです。
あなたがそれについて誠実で高潔であるなら、一つの道、真理、生命があることを発見するでしょう。そしてその人の名前は、イエス・キリストです。根本的に異なるタイプの神様です。
現代のアメリカで経験できる自由と主権について、少しでも感謝しているのであれば、イエス様に感謝すべきです。なぜなら、その文明からきたものだからです。私たちが話してきたことのすべて。ロゴスから法学の根本的な中核、神様の前での男性と女性の平等の根本的な中核。他の神様から来たものではありません。
ユダヤ・キリスト教の価値観。男性と女性は神様の前で、その価値、愛において平等です。役割は異なりますが、価値と愛においては平等です。祈りによって、根本的な意味に戻りましょう。神様の目的。キリストとの関係性。基本的な意味と目的。関係性。それが私たちを根本的な関係性に戻してくれます。
それが時空と次元を超えて、すべての始まりと一体化させます。壮大な物語に繋げられます。それは神様の物語です。聖書と関係を持つとき、自分の物語が神様の物語の一部になります。あなたは14万4千に加わり、選民に加わります。神の摂理に参加し、神様の壮大な物語に参加するのです。途方もない意味と価値を持つようになります。
しかし、神様はあなたが完璧だとは言っていません。私たちは罪から救われました。それはキリストの偉大な犠牲によるものです。自分の行動によってではなく、キリストが私たちを愛したからです。それゆえ私たちも謙遜さを持ちます。他人に対する忍耐と辛抱を持ちます。
それでも私たちは真実を語ります。不義に対抗して戦いを挑み立ち上がります。しかし、人類に対する根本的な愛を持ちます。自分を愛するように隣人を愛します。それが平和警察、平和軍の話です。AR-15を持って強がるのではありません。それは善なる人をいつでも悪から守るような、善なる人になるということです。真に神様を愛し、人を愛するいかなる国も行うべきことです。祈り。祈りです。みなさん。
天聖経93
「人間を創造された目的は、愛のゆえです。 神様の愛を中心として、その基盤の上で生命が創造されたのであり、生命を造って愛を誘発したのではないのです。 言い換えれば、本来、神様の心に愛が芽生え始めて、生命が始まります。その生命は愛から始まったので、結果も愛にならなければなりません。それゆえ愛を除けば、私たち人間は不幸なのです。」

ですから、神様の国が到来するということは、神様の愛の最高の印です。私たちが受けるだけの価値のないようなものです。私たちが勝ち取ったものではなく、神様がその千年王国で共に生きるために、私たちに授けてくださったものです。それは途方もない贈り物です。今日の最初の聖句にもどりますが、震われない国という恩寵を受けるということです。天一国はこの世界に来ます。


聖霊の役事のクリック、感謝です。 

聖酒送ります。戻る祝福を受け天の直接主管を受けましょう。

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