<重要信仰神学論>
真の罪の代贖とキリストの王権王国
6月4日と6月7日の礼拝、と5月26日のQ&Aから。
キリスト教の崩壊、家庭連合の相対神学の根本問題を、罪の本質を語りながらそれを説明されました。
同時になぜ私たちは救世主キリスト、再臨主・真のお父様を信仰するのか、罪に対するキリストの代贖の本質をもって、私たちの信仰の根本を語ってくださいました。
この内容を6月4日と6月7日の英語と韓国語の日本語訳からピックアップします。
6月4日の説教が神学的学術的に6月7日の韓国語説教はより分かりやすく具体的に説明してくださいました。
尚、神学者Francois Turretinのカタカナ表記は韓国語訳フランソワ・トゥリータン =英語訳タレンタインです。
続けて、以上の代贖の内容を理解して、「訓読さえすれば王権は不要か」という質問に対する二代王のみ言を読めば、この順番で読み進めるだけで、どうして三代王権の血統に繋がる信仰が絶対的に必要か、より深く理解できる内容になっています。
<重要信仰神学論>
真の罪の代贖とキリストの王権王国
6月4日と6月7日の礼拝、と5月26日のQ&Aから。
キリスト教の崩壊、家庭連合の相対神学の根本問題を、罪の本質を語りながらそれを説明されました。
同時になぜ私たちは救世主キリスト、再臨主・真のお父様を信仰するのか、罪に対するキリストの代贖の本質をもって、私たちの信仰の根本を語ってくださいました。
この内容を6月4日と6月7日の英語と韓国語の日本語訳からピックアップします。
6月4日の説教が神学的学術的に6月7日の韓国語説教はより分かりやすく具体的に説明してくださいました。
尚、神学者Francois Turretinのカタカナ表記は韓国語訳フランソワ・トゥリータン =英語訳タレンタインです。
尚、神学者Francois Turretinのカタカナ表記は韓国語訳フランソワ・トゥリータン =英語訳タレンタインです。
続けて、以上の代贖の内容を理解して、「訓読さえすれば王権は不要か」という質問に対する二代王のみ言を読めば、この順番で読み進めるだけで、どうして三代王権の血統に繋がる信仰が絶対的に必要か、より深く理解できる内容になっています。
2017年6月7日水曜 ■韓国語礼拝<全文>より
Sanctuary Church Korean Service 6/7/2017
完全にヨーロッパは(誤ったところに)行きました。 なぜ? ヨーロッパは善と悪を分立することができません。ヨーロッパは文化相対主義の愛を信じるようになりました。 現代時代の宗教は何か? 文化相対主義の愛です。すべてのものを愛する。 価値観がない。 善と悪がない。 すべての人々は同じである。 私たちは愛することだけすればよい。 こういう事です。
違います。愛そうとするなら、悪を憎まなければなりません。善と悪を分立できなければなりません。 善と悪を分立できないで、すべてのものを愛すれば、自分の殺人者も性暴行する者も、愛さなければならないので、来てください。 来てください。 私達を性暴行してください。こういうことと同じです。
それは、神様の贈り物と神様の恩恵と、神様が皆さんに下さった身体と心と内容を守ることではありません。 偽りの宗教。 文化相対主義の愛。
真の愛は善と悪を分離します。 分離。 分立。
真の愛は悪と一緒に寝ません。真の結婚は姦通の結婚ではありません。一緒にいることができません。 忠実な夫と浮気する夫。 ありえません。二つのうち、一つです。 娼婦女性と忠心のある女性。二つの内どちらかです。二つはできません。 どこかのワンダーウーマンの女神偽り虚偽宣伝のように。
ですからこのような内容、・・・フランソワ・トゥリータン (Francois Turretin)は 1600年代の人です。 マルチンルターのすぐ後ですね? その当時、キリストを信じる者、神学者ですが、その人がとても深い内容を話しました。 罪に対する内容を説明した時、罪は神様の前に借金である。 神様に借金をしている。 罪はある面で借金です。 借金。 借金をしている。 そうですね?
二番目は、罪は相互間の恨みです。 恨み。 神様の前に罪が積もったので、神様も私を恨み、私も神様を恨むのです。 恨み。 憎しみ。この関係で分離されたということです。 この関係で悪い内容が入って来たのです。 そうですね?それはどういうことですか? 相互間の恨みです。 私が神様の御言葉と愛に反対し無視して、それも罪であり、また神様側では「あー、こいつをちょっと見て、こいつをちょっと見て、私がこの子に生命を与えたのに、このように無視している」このようになってしまいますね。 そうですね? 恨み。 相互間の恨み。
ところで、多くのキリスト教徒はこれを理解します。罪は借金である。神様との関係の中で、罪は相互間の恨みである。それは大丈夫である。 それは正しい。 このように信じます。
ところで、一番重要な部分があります。 この嘘つきのクリスチャンはこの最後の部分を言いません。 それが何か? 罪は犯罪です。 犯罪。これは本当に重要な部分です。 罪は、私たちが神様の前に積みあげた罪は犯罪です。
なぜ? どうしてこれが重要なのか? 罪を犯した時、罰があります。罰が。
犯罪をしたら公平な国では何が出てきますか? 罰が出ます。 そう?そうじゃない? うん? 罰が出ますね? 犯罪にそのまま罰を与えなければ 犯罪がどうなりますか? もっと大きくなります。 ですから、犯罪と罰は常に繋がっています。
1:42:47
これを感情的なキリスト教徒は、ただ感性のまま生きたいキリスト教徒達がこれを忘れます。 人々が神様の前で犯した罪は、小さな罪から大きな罪まで罰と繋がっています。この部分を罪に対して理解することが出来なければ、善良な神様がどうして私たちを罰しなければならないのか分かりません。
なぜ?神様の立場において ・・・私たちがもしも、神様に借金をしたら神様は私たちにお金を貸してくれる人です。債権者です。
ところで、ある債権者が万一お金を借りました。ノスク(サモニム:師母様)さんにお金を借りました。しかし、ノスクさんに返しませんでした。 私がその債権者だとして、それを許すことができますか? できませんか? 100% 許すことができますね。「返さなくてもいい」と言えば良いでしょ? そのように易しいです。
ですからキリスト教神学で、神様はどの様な罪でもすべて許すことができる。 お前の好きなように生きなさい。と、このようになってしまいます。 文化相対主義キリスト教。 神様は債権者の外であるから。そうですね? 神様は債権者の外にであるからどの様な罪を犯しても許してくださる。 すべての罪(を犯しても)大丈夫である。 こういうふうに。 それでは、これはサタン教になってしまいます。
二番目に、私たちの恨みによって神様は攻撃を受けた人なのです。 互いの恨みに、神様はやられた人です。 私たちがやられたのではなく、私たちの罪を通して神様がやられたという事です。 冒涜されたと言う事です。 分かりますね?私たちが被害者なのではなく、神様が被害者です。
ところで、神様が冒涜された被害者であるなら、被害者は自分が冒涜された内容を消化して許すこともできますね。 私が許します。許してあげることができますね?そうですね? 債権者であれ、被害者であれ、許すことができます。 冒涜された被害者でも、許すことができます。 しかし、最後が一番重要です。最後が。犯罪。
犯罪、罪が犯罪になった時に、神様はどうしてたやすく許すことができないのか? 皆さんは頭を使いませんでしたね? なぜ? 例えば、法廷へ行って、私が犯罪人です。その裁判官の前に立って、私の罪をすべて許してください。 私は何人もの殺人をしましたが、許してください。(と言った時) 裁判官が「分かった。 許してあげます。 バイバイ。出て行きなさい」と、このように言ったらそれは公平な国になりますか? それとも危ない国になりますか? その裁判官は不正腐敗の裁判官ですか? それとも善良な裁判官ですか? そのような裁判官も多いですね? 韓国に不正腐敗の裁判官。 お金をくれたら無罪。 韓国の人がそれを見た時、それは良い。それは理想的だ。 それとも、それは不正腐敗だ。どっち? 不正腐敗ですね。
それでは、神様の法廷の前に行って、神様が裁判官なのですが、私たちが出て行って「神様、私たちを許してください」と言ったとき、神様がそのまま許したら、それは不正腐敗の裁判官ですか?善良な裁判官ですか? 悪い裁判官です。 分かりますね? 不正腐敗の裁判官です。 悪い裁判官です。なぜ?
法を守らなければならない人が法を破ったという事なのです。 神様の立場で原理を守らなければならない神様が、原理を破ったということです。それは非原理的な神様です。分かりますか?わかりますね?
ですから、罪は犯罪であると理解することが大変重要です。なぜ? 神様が私たちを許すことはできません。許す必要はありません。許されれば(それは)悪です。 私たちを許したら、神様は悪です。分かりますね? 事実は、神様が私たちをただ無罪だ(と言ったら)それは不正腐敗の神様です。なぜ? 罰を出さなかったから。 その国に住みたいですか?皆さん? そのような国に住みたいですか? そういう狂った裁判官達がいる国に。それは、そこには正義がありませんね。正義。正義がないという事なのです。 理解できますね?
1:48:34
同じく犯罪がある時、罪は犯罪です。 私が誰かに嘘をついた。 私がその男性を望んだ。私は女神になりたい。 そのような偶像崇拝をした時、すべて犯罪です。その状態から見たら、皆さんはものすごい犯罪があるという事です。 そう?そうじゃない? ここに完璧な人がいますか? それなら、神様の前に大変な犯罪があるという事です。そしてすべての犯罪に罰が付いているのです。神様が善良な裁判官なら、罰を与えなければなりません。 これを許せば悪い裁判官! 悪い国! 悪い正義! そうですね?
ですから真の愛は善と悪を分立することができます。善なる神様は、義なる神様は罪に罰を与えなければなりません。 分かりますね?
ところで、その罰を払った人が誰ですか? キリストです。私たちが罰を受けなければならないのに、キリストが入って来て、私がその罰金を支払いますと言った人なのです。 分かりましたか?このような途方もない人なのです。 無罪である人、罪のない人が入って来て、この人の前へ行って私がすべての罪を罰金を支払います。 罰金であるなら罰金! 本当の罰なら死刑、私が死刑を受けます。このような人です。 キリストは。これを理解してこそ、キリストがどれ程の途方もない愛で私たちを救われたのかが分かります。 皆さん。
私達の罪は犯罪だと言うことを・・・犯罪人! すべて犯罪人です。監獄に行って永遠な地獄へ行かなければなりません。罰、永遠な苦痛を受けなければなりません。皆さん。 それをどのようにすり抜けて来たのですか? 神様の恩恵、恩寵、恩賜(によってです)。皆さんが受けるに値する人であるからではありません。皆さんが優れていたから、良い行いをしたから、受けるに値する人なのではありません。それは神様が偉大だから、神様の愛が偉大だから、キリストの愛が偉大であるから、私たちが受けることができたのです。分かりますね? その愛が途方もない愛なのです。真の父、真の夫の愛です。
1:52:05
ですから罪は借金である。或いは恨みである。 この次元であれば許しはすべて解決されます。しかし、罪が犯罪であった時、許しは解決することができません。これからは、皆さんが人々に尋ねた時、「神様は私たちを許してくださるでしょ。」と言ったとき、皆さんは本来考えませんでしたが、これからは返答ができますか? できないですか? 返事が。人がそのように言う時、話にならないと言うことを理解しますか? 「神様は、ただ許せばいいじゃないの。 すべてのものを、ただ許せばいいじゃないの。」 No! その人は理解できません。 罪、犯罪(を理解できません)。
ですから、そのように言う人は元々キリストがいません。 自分がメシアだと考えます。この愚かな女性達のように。今回、家庭連合詐欺連合の女が来ましたが、自分も神だそうです。韓氏オモニのように。狂った奴! まったく・・・ 神様の前に途方もない罪です。犯罪を積んでいます。
キリストは、ですから私たちの救援者、救世主です。 私たちが永遠な死の罰を受けなければならないのに、永遠の苦痛の罰を受けなければならないのに、その罰金を支払ったのです。 私のために、皆さんのために、代贖(という言葉)がでてきますね。神学的な単語である代贖、それを支払ったという事です。愛のために。
そのようなもの凄い愛を受けることができるのですが、ここで人の選択が必要です。主が入って来て「私がその罰金を払います。」と言ったのですが、私が「あ~!必要ありません」と、罰をすべて受けるようにすることができます。そう?そうじゃない? 私が選択することができますね? ですから私たちは、「私は、主は必要ありません。キリストは必要ありません。好き勝手に生きて、幸せに生きればいいでしょ」と、このようにした時、そのような大変高慢な行動をしています。
罰金まで払うという愛、愛してくださる恩恵、恩寵をくださる神様、キリストに、「私は必要ありません。私が罰金を支払います。」その罰金が永遠な死と永遠な苦痛であっても、錯覚しています。完全に錯覚! 永遠な時間は、とてつもなく長いのです。
皆さんは一日だけでも労動すれば、女性達は不平不満が出るのではないですか? 口がとんがるでしょ?一日だけでも(肉体)労動をすれば、口がブーっととんがりますね。とんでもない。半日仕事をしただけで口がとんがります。まったく・・・永遠な苦痛を考えてみなさい。労動は難しくもないのに。石だけ動かして、土だけ動かしていたのに、ブブブ・・・と、ほんとうに・・・永遠な苦痛があります。錯覚です、錯覚! これが理解できないのです。
1:55:39
神様がそのような途方もない恩恵、恩寵をくださる時、私たちは「必要ない。私一人で楽に生きたら良いでしょ」このようにした時にその人は自分の救済の道を捨てたと言うことです。 自分の選択で。ですから私たちは、そのような人を見た時、本当に悲しいです。 悲しいですね。しかし、そのようにしてはいけないと学びます。
そうこういうことを説明しましたね?ですから私たちの罪を代贖して下さったキリストは、・・・これは本当に深いです。本当に深い内容です。これを考えなければなりません。複雑ではありません。考えなければなりません。 本当に深いです。
私たちの代贖を、私たち代わりに罰金を払うことができる人が誰であるのか? どの様な存在が私たちが支払わなければならない罰金と罰を代わりに払うことができるのか? そうですね?
例えば法廷において、裁判官がお前は罪人だ。罪を犯したが、道ばたから罪のない人を一人連れておいで。連れてきたら、お前の罪は罪のないその人に行く。 このようにしたとするならば話になりますか? 話になりませんね。そうですね?あり得ませんね?これは狂った法廷になります。ただ道ばたを歩いていた人に、「ああ、あんた、あんた、ちょっと来て、来て。」とやったら、犯した罪がその人に行く。「え? 私は何もしていないのに、ただ歩いていただけです」 (このようなことが)あり得ますか?
それではイエス様がどうしてそのようにしますか? 私たちのために?そういうことでしょ?どうしてキリストは私たちのためにそうするのですか?話にもならないですね?(いいえ)話になります。理解しなければなりません。
五つあります。 五つ! 私たちの罪を代贖するキリストは5つあります。その存在は五つなければなりません。
一番目は人間と、その罪を犯した人と同じ本質がなければなりません。 早い話が人であるということです。同じ人ではなければなりません。動物は私たちの罪を許すことができません。 その象徴的な内容があります。 そう?そうじゃない? ユダヤ民族は象徴的にそれをしましたね。 動物の献祭、献納!
ところで本当に私たちの罪の代わりをする存在がいなければならないとしたら、その存在は私たちと同じでなければなりません。まったく同じ罰を受けなければなりません。 動物は同じ罰を受けることができません。 私たちと同じ存在ではないから、そうですね?ですから私たちと同じ存在でなければなりません。これが一番目。
二番目は志願者です。簡単に言えば志願者。この人が自由選択で、私がするとしなければなりません。 道を歩く人に、来なさい、お前にこの人の罰をあげる。 このようにすれば道を歩く人は自由選択がありません。 自由選択がないので、話になりませんね。 これは正義ではありません。 これは狂った行いです。 北朝鮮です。ですから自由選択が必ずなければならないのです。 必ず!
ですからイエス様がゲッセマネの園で、神様にこのように仰いました。「この盃が過ぎ去るようにしてください。しかし、父の願う道、そうですね?父の願われる道、御心のままに行きます。」イエス様も十字架に行来たくないのですが、それでも行きます。 父のみこころなら私が行きます。 そうですね?
再臨主も同じです。蕩減路程とは何か? すべての世界の歴史の罪を背負わなければならいということです。 それを自由選択においてしなければなりません。 お父様も! お父様(において)は、神様が来られても、イエス様の(時の)ように神様がいらっしゃっても、神様の本体であっても、実体の神様であっても、自由選択がある時、人間(として)の面から、自由選択をしなければなりません。 私がやりますと。 ですからお父様は二度断りましたが、三度目にはするとおっしゃいましたね 。 自由選択が必ずなければなりません。 そうでなければ義がありません。 正義が。狂った国です。狂った法廷。
2:00:59
その次に、この代贖者は自分の生命に対する主管権がなければなりません。自分の生命に対する主管権ががあってこそ、この生命を与えることができるという事です。 自分の生命に対する主管権ががなければ、自分がこれを与えることができませんね。 例えば赤ちゃんが与えることはできないでしょう。 赤ちゃんは自分の生命権の自由選択がないから、まだ自分のお母さんのおっぱいにくっついていますね。そうですね? 自分の生命の主管権が無ければならないということです。
その次に、この代贖者はすべての犯罪の罰を、100%、あらゆる犯罪の罰を受けることができる存在でなければなりません。1%、0.00000001%でもだめです。 100% 私たちが受けるべき罰金を全て支払わなければなりません。 そのようなパワーがなければなりません。 そのすべての罰を受けることができるパワーがなければなりません。 そうですね?
簡単に言えば、すべての人間の罰を受けなければならないので、一般の人はなれません。どのようにして普通の人がすべての人間の罰を払いますか?これは完璧にこの罰を受けることのできる人、完璧に罪のない人ではなければなりません。無罪、罪のない人。原罪のない人は誰ですか? メシア! メシア! メシアです。 神様の本体、神様の実体、地上にいる神様です。
神様も罪がないですね。原罪もないですね。 すべての罪を完璧に受けることができる人はメシアです。蕩減の道はそれ程、恐ろしいのです。 私たちはそのような立場で見ませんでしたね?蕩減道はそのように恐ろしいのです。すべての罰を受けなければならないのです。全ての罰。お父様は生きながらすべての罰を受けました。全てのこと、全て受けられました。原罪がない人、罪のない人がすべての罰を受けたのです。
一生の間に。
五番目は神様に対して僅かな借金でもした人はだめです。神様に対して目糞ほどの借金をしたら、それは完璧な無罪ではありません。 そうですね? 完全に罪がなければなりません。それは人間がなることはできません。それはまさにメシア、神様の実体だけができるのです。 理解できますね?とても深いです。深いのです。
この内容を理解すれば、お父様の価値、キリストの価値、イエス様の価値、お父様の価値・・・ものすごく深いです。 皆さんが賛美する時も、その賛美に湧き出る愛がすごく深くなります。私たちが賛美するキリストの愛、イエス様の愛、神様の愛、なぜ讃美するのか。これはただ何かのワンダーウーマンから出る文化相対主義の愛ではありません。これは私たちを救う愛です。罪のある人々を法廷で救済してくださる、罪のない人が私たちの罰をすべて受けるのことなのです。 私たちだけなくて全人類の罰を。その途方もない愛を賛美することなのです。
そのようなことを考えれば考えるほど、暝想すればするほど、主と神様の再臨主の愛がどれ程偉大であるのか理解するようになります。 ますます。 深くなります。関係が!
夫も、より理解すれば、ますます愛らしく見えますね? 同じく神様とお父様の愛、再臨主の愛、神様の愛を理解すればするほど、関係が深くなります。 結局私たちが死んだ時、天国に行った時に、私達は他の物を持ってくることはできません。 神様との関係がどれほど深いのか、これだけです。 これだけが残っています。 そうですね? このような驚くべき愛の前で、お父様に大きな賛美と感謝の拍手を送りましょう。 (拍手) アジュ!
天聖経1230ページを読んでみましょう。
天聖経 1230ページ。(韓国語)
私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的な基点とは何ですか。それは、神様の愛の接触点へ帰ることです。
(文鮮明先生御言葉選集 35巻 159ページ、1970年 10月 13日)
救援! どこも法廷! 罰、罪はただ借金ではありません。 罪はただ恨みではありません。 罪は犯罪です。これを理解してこそ、善良な神様がどうして罰を与えなければならないのかを理解します。 それは公平な、正義の神様なのです。 善良な神様は罰をくださらなければなりません。犯罪がある時に。
では、どうして主の愛は偉大なのか、どうして救済者の道はとても悲惨なのか、どうして救済者の道はあまりもの血と汗と涙と万個の十字架の道なのか。 自分には罪がないのに、すべての人々の罰を受けなければなりません自分が。 全ての罪は多の人に罪ではありません皆さんの犯罪、皆さんの罰。 皆さんが受けなければならない罰を再臨主が全て受けます。 皆さんが永遠に受けなければならない罰を、救世主は代わりに受けてくださいます。ですから、こんな愛がどこにありますか?
天聖経 1230ページ。(韓国語)
私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的な基点とは何ですか。それは、神様の愛の接触点へ帰ることです。
(文鮮明先生御言葉選集 35巻 159ページ、1970年 10月 13日)
ですから私たちはキリストの愛を賛美します。 その愛は文化相対主義の愚かな愛ではありません。 その愛は救援の愛なのですから。
では、賛美される方は出て来て、そのような内容をもって深い理解と深い知識で、神様の恩恵、恩寵、恩賜に、私たちの罪に対して理解する聖徒として神様にすべての讃揚を捧げます。アジュ、アジュ、アジュ!
ヨナニム:食口の皆様アンニョンハセヨ。
讃美礼拝に来られたことを歓迎します。
今日はとてもキリストはどのように代贖してくださったか、そしてその愛がどれほど偉大であるか、私が突然声が震える程、救世主の大きな恩恵と大きな愛を感じます。最近二代王は詩編23編に対して多くマルスムを語って下さいます。
詩編23編のようにこのように何の罪も無いキリストが私たちを、私たちの罪をこのように代贖してくださり、私たちをこれほど愛して下さるその愛が溶け込んでいる詩編23編です。今日はこの讃美で讃美礼拝を始めます。アジュ
詩編第23篇
ダビデの歌
23:1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
23:2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
23:3主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
23:4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
23:5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
23:6わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
以上翻訳:ミニオン
完全にヨーロッパは(誤ったところに)行きました。 なぜ? ヨーロッパは善と悪を分立することができません。ヨーロッパは文化相対主義の愛を信じるようになりました。 現代時代の宗教は何か? 文化相対主義の愛です。すべてのものを愛する。 価値観がない。 善と悪がない。 すべての人々は同じである。 私たちは愛することだけすればよい。 こういう事です。
違います。愛そうとするなら、悪を憎まなければなりません。善と悪を分立できなければなりません。 善と悪を分立できないで、すべてのものを愛すれば、自分の殺人者も性暴行する者も、愛さなければならないので、来てください。 来てください。 私達を性暴行してください。こういうことと同じです。
それは、神様の贈り物と神様の恩恵と、神様が皆さんに下さった身体と心と内容を守ることではありません。 偽りの宗教。 文化相対主義の愛。
真の愛は善と悪を分離します。 分離。 分立。
真の愛は悪と一緒に寝ません。真の結婚は姦通の結婚ではありません。一緒にいることができません。 忠実な夫と浮気する夫。 ありえません。二つのうち、一つです。 娼婦女性と忠心のある女性。二つの内どちらかです。二つはできません。 どこかのワンダーウーマンの女神偽り虚偽宣伝のように。
ですからこのような内容、・・・フランソワ・トゥリータン (Francois Turretin)は 1600年代の人です。 マルチンルターのすぐ後ですね? その当時、キリストを信じる者、神学者ですが、その人がとても深い内容を話しました。 罪に対する内容を説明した時、罪は神様の前に借金である。 神様に借金をしている。 罪はある面で借金です。 借金。 借金をしている。 そうですね?
二番目は、罪は相互間の恨みです。 恨み。 神様の前に罪が積もったので、神様も私を恨み、私も神様を恨むのです。 恨み。 憎しみ。この関係で分離されたということです。 この関係で悪い内容が入って来たのです。 そうですね?それはどういうことですか? 相互間の恨みです。 私が神様の御言葉と愛に反対し無視して、それも罪であり、また神様側では「あー、こいつをちょっと見て、こいつをちょっと見て、私がこの子に生命を与えたのに、このように無視している」このようになってしまいますね。 そうですね? 恨み。 相互間の恨み。
ところで、多くのキリスト教徒はこれを理解します。罪は借金である。神様との関係の中で、罪は相互間の恨みである。それは大丈夫である。 それは正しい。 このように信じます。
ところで、一番重要な部分があります。 この嘘つきのクリスチャンはこの最後の部分を言いません。 それが何か? 罪は犯罪です。 犯罪。これは本当に重要な部分です。 罪は、私たちが神様の前に積みあげた罪は犯罪です。
なぜ? どうしてこれが重要なのか? 罪を犯した時、罰があります。罰が。
犯罪をしたら公平な国では何が出てきますか? 罰が出ます。 そう?そうじゃない? うん? 罰が出ますね? 犯罪にそのまま罰を与えなければ 犯罪がどうなりますか? もっと大きくなります。 ですから、犯罪と罰は常に繋がっています。
1:42:47
これを感情的なキリスト教徒は、ただ感性のまま生きたいキリスト教徒達がこれを忘れます。 人々が神様の前で犯した罪は、小さな罪から大きな罪まで罰と繋がっています。この部分を罪に対して理解することが出来なければ、善良な神様がどうして私たちを罰しなければならないのか分かりません。
なぜ?神様の立場において ・・・私たちがもしも、神様に借金をしたら神様は私たちにお金を貸してくれる人です。債権者です。
ところで、ある債権者が万一お金を借りました。ノスク(サモニム:師母様)さんにお金を借りました。しかし、ノスクさんに返しませんでした。 私がその債権者だとして、それを許すことができますか? できませんか? 100% 許すことができますね。「返さなくてもいい」と言えば良いでしょ? そのように易しいです。
ですからキリスト教神学で、神様はどの様な罪でもすべて許すことができる。 お前の好きなように生きなさい。と、このようになってしまいます。 文化相対主義キリスト教。 神様は債権者の外であるから。そうですね? 神様は債権者の外にであるからどの様な罪を犯しても許してくださる。 すべての罪(を犯しても)大丈夫である。 こういうふうに。 それでは、これはサタン教になってしまいます。
二番目に、私たちの恨みによって神様は攻撃を受けた人なのです。 互いの恨みに、神様はやられた人です。 私たちがやられたのではなく、私たちの罪を通して神様がやられたという事です。 冒涜されたと言う事です。 分かりますね?私たちが被害者なのではなく、神様が被害者です。
ところで、神様が冒涜された被害者であるなら、被害者は自分が冒涜された内容を消化して許すこともできますね。 私が許します。許してあげることができますね?そうですね? 債権者であれ、被害者であれ、許すことができます。 冒涜された被害者でも、許すことができます。 しかし、最後が一番重要です。最後が。犯罪。
犯罪、罪が犯罪になった時に、神様はどうしてたやすく許すことができないのか? 皆さんは頭を使いませんでしたね? なぜ? 例えば、法廷へ行って、私が犯罪人です。その裁判官の前に立って、私の罪をすべて許してください。 私は何人もの殺人をしましたが、許してください。(と言った時) 裁判官が「分かった。 許してあげます。 バイバイ。出て行きなさい」と、このように言ったらそれは公平な国になりますか? それとも危ない国になりますか? その裁判官は不正腐敗の裁判官ですか? それとも善良な裁判官ですか? そのような裁判官も多いですね? 韓国に不正腐敗の裁判官。 お金をくれたら無罪。 韓国の人がそれを見た時、それは良い。それは理想的だ。 それとも、それは不正腐敗だ。どっち? 不正腐敗ですね。
それでは、神様の法廷の前に行って、神様が裁判官なのですが、私たちが出て行って「神様、私たちを許してください」と言ったとき、神様がそのまま許したら、それは不正腐敗の裁判官ですか?善良な裁判官ですか? 悪い裁判官です。 分かりますね? 不正腐敗の裁判官です。 悪い裁判官です。なぜ?
法を守らなければならない人が法を破ったという事なのです。 神様の立場で原理を守らなければならない神様が、原理を破ったということです。それは非原理的な神様です。分かりますか?わかりますね?
ですから、罪は犯罪であると理解することが大変重要です。なぜ? 神様が私たちを許すことはできません。許す必要はありません。許されれば(それは)悪です。 私たちを許したら、神様は悪です。分かりますね? 事実は、神様が私たちをただ無罪だ(と言ったら)それは不正腐敗の神様です。なぜ? 罰を出さなかったから。 その国に住みたいですか?皆さん? そのような国に住みたいですか? そういう狂った裁判官達がいる国に。それは、そこには正義がありませんね。正義。正義がないという事なのです。 理解できますね?
1:48:34
同じく犯罪がある時、罪は犯罪です。 私が誰かに嘘をついた。 私がその男性を望んだ。私は女神になりたい。 そのような偶像崇拝をした時、すべて犯罪です。その状態から見たら、皆さんはものすごい犯罪があるという事です。 そう?そうじゃない? ここに完璧な人がいますか? それなら、神様の前に大変な犯罪があるという事です。そしてすべての犯罪に罰が付いているのです。神様が善良な裁判官なら、罰を与えなければなりません。 これを許せば悪い裁判官! 悪い国! 悪い正義! そうですね?
ですから真の愛は善と悪を分立することができます。善なる神様は、義なる神様は罪に罰を与えなければなりません。 分かりますね?
ところで、その罰を払った人が誰ですか? キリストです。私たちが罰を受けなければならないのに、キリストが入って来て、私がその罰金を支払いますと言った人なのです。 分かりましたか?このような途方もない人なのです。 無罪である人、罪のない人が入って来て、この人の前へ行って私がすべての罪を罰金を支払います。 罰金であるなら罰金! 本当の罰なら死刑、私が死刑を受けます。このような人です。 キリストは。これを理解してこそ、キリストがどれ程の途方もない愛で私たちを救われたのかが分かります。 皆さん。
私達の罪は犯罪だと言うことを・・・犯罪人! すべて犯罪人です。監獄に行って永遠な地獄へ行かなければなりません。罰、永遠な苦痛を受けなければなりません。皆さん。 それをどのようにすり抜けて来たのですか? 神様の恩恵、恩寵、恩賜(によってです)。皆さんが受けるに値する人であるからではありません。皆さんが優れていたから、良い行いをしたから、受けるに値する人なのではありません。それは神様が偉大だから、神様の愛が偉大だから、キリストの愛が偉大であるから、私たちが受けることができたのです。分かりますね? その愛が途方もない愛なのです。真の父、真の夫の愛です。
1:52:05
ですから罪は借金である。或いは恨みである。 この次元であれば許しはすべて解決されます。しかし、罪が犯罪であった時、許しは解決することができません。これからは、皆さんが人々に尋ねた時、「神様は私たちを許してくださるでしょ。」と言ったとき、皆さんは本来考えませんでしたが、これからは返答ができますか? できないですか? 返事が。人がそのように言う時、話にならないと言うことを理解しますか? 「神様は、ただ許せばいいじゃないの。 すべてのものを、ただ許せばいいじゃないの。」 No! その人は理解できません。 罪、犯罪(を理解できません)。
ですから、そのように言う人は元々キリストがいません。 自分がメシアだと考えます。この愚かな女性達のように。今回、家庭連合詐欺連合の女が来ましたが、自分も神だそうです。韓氏オモニのように。狂った奴! まったく・・・ 神様の前に途方もない罪です。犯罪を積んでいます。
キリストは、ですから私たちの救援者、救世主です。 私たちが永遠な死の罰を受けなければならないのに、永遠の苦痛の罰を受けなければならないのに、その罰金を支払ったのです。 私のために、皆さんのために、代贖(という言葉)がでてきますね。神学的な単語である代贖、それを支払ったという事です。愛のために。
そのようなもの凄い愛を受けることができるのですが、ここで人の選択が必要です。主が入って来て「私がその罰金を払います。」と言ったのですが、私が「あ~!必要ありません」と、罰をすべて受けるようにすることができます。そう?そうじゃない? 私が選択することができますね? ですから私たちは、「私は、主は必要ありません。キリストは必要ありません。好き勝手に生きて、幸せに生きればいいでしょ」と、このようにした時、そのような大変高慢な行動をしています。
罰金まで払うという愛、愛してくださる恩恵、恩寵をくださる神様、キリストに、「私は必要ありません。私が罰金を支払います。」その罰金が永遠な死と永遠な苦痛であっても、錯覚しています。完全に錯覚! 永遠な時間は、とてつもなく長いのです。
皆さんは一日だけでも労動すれば、女性達は不平不満が出るのではないですか? 口がとんがるでしょ?一日だけでも(肉体)労動をすれば、口がブーっととんがりますね。とんでもない。半日仕事をしただけで口がとんがります。まったく・・・永遠な苦痛を考えてみなさい。労動は難しくもないのに。石だけ動かして、土だけ動かしていたのに、ブブブ・・・と、ほんとうに・・・永遠な苦痛があります。錯覚です、錯覚! これが理解できないのです。
1:55:39
神様がそのような途方もない恩恵、恩寵をくださる時、私たちは「必要ない。私一人で楽に生きたら良いでしょ」このようにした時にその人は自分の救済の道を捨てたと言うことです。 自分の選択で。ですから私たちは、そのような人を見た時、本当に悲しいです。 悲しいですね。しかし、そのようにしてはいけないと学びます。
そうこういうことを説明しましたね?ですから私たちの罪を代贖して下さったキリストは、・・・これは本当に深いです。本当に深い内容です。これを考えなければなりません。複雑ではありません。考えなければなりません。 本当に深いです。
私たちの代贖を、私たち代わりに罰金を払うことができる人が誰であるのか? どの様な存在が私たちが支払わなければならない罰金と罰を代わりに払うことができるのか? そうですね?
例えば法廷において、裁判官がお前は罪人だ。罪を犯したが、道ばたから罪のない人を一人連れておいで。連れてきたら、お前の罪は罪のないその人に行く。 このようにしたとするならば話になりますか? 話になりませんね。そうですね?あり得ませんね?これは狂った法廷になります。ただ道ばたを歩いていた人に、「ああ、あんた、あんた、ちょっと来て、来て。」とやったら、犯した罪がその人に行く。「え? 私は何もしていないのに、ただ歩いていただけです」 (このようなことが)あり得ますか?
それではイエス様がどうしてそのようにしますか? 私たちのために?そういうことでしょ?どうしてキリストは私たちのためにそうするのですか?話にもならないですね?(いいえ)話になります。理解しなければなりません。
五つあります。 五つ! 私たちの罪を代贖するキリストは5つあります。その存在は五つなければなりません。
一番目は人間と、その罪を犯した人と同じ本質がなければなりません。 早い話が人であるということです。同じ人ではなければなりません。動物は私たちの罪を許すことができません。 その象徴的な内容があります。 そう?そうじゃない? ユダヤ民族は象徴的にそれをしましたね。 動物の献祭、献納!
ところで本当に私たちの罪の代わりをする存在がいなければならないとしたら、その存在は私たちと同じでなければなりません。まったく同じ罰を受けなければなりません。 動物は同じ罰を受けることができません。 私たちと同じ存在ではないから、そうですね?ですから私たちと同じ存在でなければなりません。これが一番目。
二番目は志願者です。簡単に言えば志願者。この人が自由選択で、私がするとしなければなりません。 道を歩く人に、来なさい、お前にこの人の罰をあげる。 このようにすれば道を歩く人は自由選択がありません。 自由選択がないので、話になりませんね。 これは正義ではありません。 これは狂った行いです。 北朝鮮です。ですから自由選択が必ずなければならないのです。 必ず!
ですからイエス様がゲッセマネの園で、神様にこのように仰いました。「この盃が過ぎ去るようにしてください。しかし、父の願う道、そうですね?父の願われる道、御心のままに行きます。」イエス様も十字架に行来たくないのですが、それでも行きます。 父のみこころなら私が行きます。 そうですね?
再臨主も同じです。蕩減路程とは何か? すべての世界の歴史の罪を背負わなければならいということです。 それを自由選択においてしなければなりません。 お父様も! お父様(において)は、神様が来られても、イエス様の(時の)ように神様がいらっしゃっても、神様の本体であっても、実体の神様であっても、自由選択がある時、人間(として)の面から、自由選択をしなければなりません。 私がやりますと。 ですからお父様は二度断りましたが、三度目にはするとおっしゃいましたね 。 自由選択が必ずなければなりません。 そうでなければ義がありません。 正義が。狂った国です。狂った法廷。
2:00:59
その次に、この代贖者は自分の生命に対する主管権がなければなりません。自分の生命に対する主管権ががあってこそ、この生命を与えることができるという事です。 自分の生命に対する主管権ががなければ、自分がこれを与えることができませんね。 例えば赤ちゃんが与えることはできないでしょう。 赤ちゃんは自分の生命権の自由選択がないから、まだ自分のお母さんのおっぱいにくっついていますね。そうですね? 自分の生命の主管権が無ければならないということです。
その次に、この代贖者はすべての犯罪の罰を、100%、あらゆる犯罪の罰を受けることができる存在でなければなりません。1%、0.00000001%でもだめです。 100% 私たちが受けるべき罰金を全て支払わなければなりません。 そのようなパワーがなければなりません。 そのすべての罰を受けることができるパワーがなければなりません。 そうですね?
簡単に言えば、すべての人間の罰を受けなければならないので、一般の人はなれません。どのようにして普通の人がすべての人間の罰を払いますか?これは完璧にこの罰を受けることのできる人、完璧に罪のない人ではなければなりません。無罪、罪のない人。原罪のない人は誰ですか? メシア! メシア! メシアです。 神様の本体、神様の実体、地上にいる神様です。
神様も罪がないですね。原罪もないですね。 すべての罪を完璧に受けることができる人はメシアです。蕩減の道はそれ程、恐ろしいのです。 私たちはそのような立場で見ませんでしたね?蕩減道はそのように恐ろしいのです。すべての罰を受けなければならないのです。全ての罰。お父様は生きながらすべての罰を受けました。全てのこと、全て受けられました。原罪がない人、罪のない人がすべての罰を受けたのです。
一生の間に。
五番目は神様に対して僅かな借金でもした人はだめです。神様に対して目糞ほどの借金をしたら、それは完璧な無罪ではありません。 そうですね? 完全に罪がなければなりません。それは人間がなることはできません。それはまさにメシア、神様の実体だけができるのです。 理解できますね?とても深いです。深いのです。
この内容を理解すれば、お父様の価値、キリストの価値、イエス様の価値、お父様の価値・・・ものすごく深いです。 皆さんが賛美する時も、その賛美に湧き出る愛がすごく深くなります。私たちが賛美するキリストの愛、イエス様の愛、神様の愛、なぜ讃美するのか。これはただ何かのワンダーウーマンから出る文化相対主義の愛ではありません。これは私たちを救う愛です。罪のある人々を法廷で救済してくださる、罪のない人が私たちの罰をすべて受けるのことなのです。 私たちだけなくて全人類の罰を。その途方もない愛を賛美することなのです。
そのようなことを考えれば考えるほど、暝想すればするほど、主と神様の再臨主の愛がどれ程偉大であるのか理解するようになります。 ますます。 深くなります。関係が!
夫も、より理解すれば、ますます愛らしく見えますね? 同じく神様とお父様の愛、再臨主の愛、神様の愛を理解すればするほど、関係が深くなります。 結局私たちが死んだ時、天国に行った時に、私達は他の物を持ってくることはできません。 神様との関係がどれほど深いのか、これだけです。 これだけが残っています。 そうですね? このような驚くべき愛の前で、お父様に大きな賛美と感謝の拍手を送りましょう。 (拍手) アジュ!
天聖経1230ページを読んでみましょう。
天聖経 1230ページ。(韓国語)
私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的な基点とは何ですか。それは、神様の愛の接触点へ帰ることです。
(文鮮明先生御言葉選集 35巻 159ページ、1970年 10月 13日)
救援! どこも法廷! 罰、罪はただ借金ではありません。 罪はただ恨みではありません。 罪は犯罪です。これを理解してこそ、善良な神様がどうして罰を与えなければならないのかを理解します。 それは公平な、正義の神様なのです。 善良な神様は罰をくださらなければなりません。犯罪がある時に。
では、どうして主の愛は偉大なのか、どうして救済者の道はとても悲惨なのか、どうして救済者の道はあまりもの血と汗と涙と万個の十字架の道なのか。 自分には罪がないのに、すべての人々の罰を受けなければなりません自分が。 全ての罪は多の人に罪ではありません皆さんの犯罪、皆さんの罰。 皆さんが受けなければならない罰を再臨主が全て受けます。 皆さんが永遠に受けなければならない罰を、救世主は代わりに受けてくださいます。ですから、こんな愛がどこにありますか?
天聖経 1230ページ。(韓国語)
私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的な基点とは何ですか。それは、神様の愛の接触点へ帰ることです。
(文鮮明先生御言葉選集 35巻 159ページ、1970年 10月 13日)
ですから私たちはキリストの愛を賛美します。 その愛は文化相対主義の愚かな愛ではありません。 その愛は救援の愛なのですから。
では、賛美される方は出て来て、そのような内容をもって深い理解と深い知識で、神様の恩恵、恩寵、恩賜に、私たちの罪に対して理解する聖徒として神様にすべての讃揚を捧げます。アジュ、アジュ、アジュ!
ヨナニム:食口の皆様アンニョンハセヨ。
讃美礼拝に来られたことを歓迎します。
今日はとてもキリストはどのように代贖してくださったか、そしてその愛がどれほど偉大であるか、私が突然声が震える程、救世主の大きな恩恵と大きな愛を感じます。最近二代王は詩編23編に対して多くマルスムを語って下さいます。
詩編23編のようにこのように何の罪も無いキリストが私たちを、私たちの罪をこのように代贖してくださり、私たちをこれほど愛して下さるその愛が溶け込んでいる詩編23編です。今日はこの讃美で讃美礼拝を始めます。アジュ
詩編第23篇
ダビデの歌
23:1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
23:2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
23:3主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
23:4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
23:5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
23:6わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
以上翻訳:ミニオン
2017年6月4日日曜英語礼拝 ■名誉の王国より
この改革者タレンタインは、罪について3つのことを述べています。1つ目は負債です。私たちが神様に負っている負債です。もっと正確には神様の正義に対する負債です。
「私達は神様に道徳的な義務を果たすべき義務がありますが、それを果たしていないので私達は神様に対して負債があります」
私達には完遂していない義務があり、私達は従うことなくそれを果たしていないので、これらの道徳的義務を与えた神様に負債があるのです。神様は私達に命を与えた方なのですから神様に果たすべき義務があるのです。私達は神様に借りがあります。
ですから罪は負債と見なすことができます。私たちが何か行って神様から離れ、神様を傷つけるならば、それは神様に支払うべき負債と見なすことができます。
また罪は、相互反目としても見なされます。ここで重要なのは相互と言う点です。私たちが神様とその戒律に対して反逆しているというだけでなく、神様の聖なる怒り、罪を憎む怒りが私達に対して向けられるということです。真に善であり正義である神様は、罪を憎むのです。なぜなら罪は悪であり、善ではないからです。
ですから神様は罪を拒絶し、非難します。ですから私たちが神様に対する罪の、反逆の人生を選ぶとき、私たちが神様に対して敵対するだけでなく、神様もまた私達に対して、聖なる公正と正義において敵対するのです。ですから私達と神様が相互に反目することになります。
そして3番目に、罪は犯罪であるということです。これが彼と対立したソシナスとの違いです。ソシニアンは、現在の教会の中でさえ一般的です。つまりそこでは罪は神様に負っている負債であると信じているのです。またそれは相互に反目していると。しかし、彼らはそれが犯罪だとは信じていません。
タレンタインはそれに対して、それは私たちが神様に対して犯した犯罪でもあるのだと言っているのです。そしてその罰は永遠の死であると。つまりそれは地獄であり、永遠に神様から離れることです。そして私達と、私達を正当に裁くことのできる最高の主権者の間で刑事責任を負わされるということです。
ですから、負債だけではなく、また相互の反目だけでなく、それは犯罪でもあるということなのです。
次に神様と罪に関してタレンタインが説明しています。先程のスライドで見た、私たちの罪が負債であり、相互反目であり、犯罪であるというのと同じように、3つのパターンに分けてそれを説明しています。
1つ目に神様は私たちの負債の債権者であるということです。神様の側から見ると債権者のようなものだということです。
反目については、神様は対立関係にある被害者となります。ただ許しを乞えば許されるというような簡単なものではないということが分かります。これが、神様はどんな罪でも許されると信じるソシニアンとの分かれ目になります。
そして人々は神様の正義を理解することができます。
3番目に私達の罪ということから、神様は最高の裁判官であり主権者であります。その方が何を作られたのでしょうか。法を作られたのです。私たちが従うべき命令です。それは恣意的に神様の頭から出てきたものであり、それらは神様の人としての性質の延長です。
因果応報を1番目と2番目の負債と反目という形でのみ見るならば、神様はすべての罪を許されるだけだと言えます。クリスチャンの中には繁栄の福音を求める人や、ユニテリアン・ユニヴァーサリズム的な人もいます。神様はとにかくすべてを許されるというのです。それは明らかに本当の福音ではありません。ソシニアンの福音です。
あなたが誰かにお金を貸していたとしたらその負債を完全に許してあげることができます。あなたにはその負債を完全に許して上げる力がありますね。それで神様が単に債権者だとすれば神様はその負債を許してあげることができるのです。
神様が相互反目していて被害者であるなら、神様はあなたを訴えないことを選択することができます。
しかし、あなたが犯罪を犯して神様が裁判官であるなら、神様はあなたを罰する義務があるのです。この人を罰したくないと言う選択肢は無いのです。なぜならその法全体を損なうことになってしまうからです。私達は原理と呼んでいます。原理的に行動するということです。神様が原理を作ったので原理的に行動するしかないということです。
ですから私たちの罪も犯罪であると理解すれば、神様はただの債権者ではなく、ただ傷つけられた存在なだけでなく、私達を罰しなければならないのだということが分かるのです。そして神様は、それを全く公正に、正しく行うことができます。良い裁判官が大量殺人犯を完全に公正に、正しく罰することができるのと同じように。
ですから私たちの罪の性質とその重大さ理解するなら、大きな罪から小さな罪まで関係なくそれらは私達を神様の性質から引き離すものであり、小さな嘘であっても神様から引き離すことになります。どれだけ自分が完璧だと思っていても、私達は神様の完璧さ、完璧な道徳的性質、完璧な道徳的性格の前では罪があります。
私達の罪は許してもらえる負債や反目だけではなく、犯罪であるのだと理解することが重要です。それは神様が宇宙全体の性質を破壊することなしに、また神様自身がご自分の性質に反対することなしには、簡単に許すことのできないものです。
そういうわけで私達ユニフィケーションは、原理または原理対原理に言及します。神様も原理を裏切り否定することはできません。ですから例えば、アダムとエバを許してあげることはできないのです。何らかのレベルの責任が必要なのです。何らかの蕩減を払わなければなりません。あるレベルの因果応報が、その負債だけも反目だけでなく、犯罪に対して支払われなければならないのです。神様だけが、正義の神様、善なる神様だけが犯罪に対して罰するのです。私たちが理解できるいかなる国であっても、そこで善良な裁判官が行うのとまったく同じことです。
学者が多くの韓国人は土着の信仰を持っていると指摘しているように家庭詐欺連合でも2つの神を信じていますが、今日においてさえ、まだソシニアン的な状態にあります。つまり神様は自分の負債を許して下さり、自分の反目を許してくれるのだと。1つ問題なのが、罪は犯罪でもあるということです。神様は犯罪を単に許すことはできません。あらゆる面で法を損なうことになります。自分自身の性質を損なうのです。すべての創造を損なうのです。罪の性質を犯罪としても理解するなら、そこから逃げるのは簡単ではありません。なぜならあらゆる国が生き残るのに不可欠な法律学と正義の様相全体を追求すれば・・・。
ジェフリー・ダーマー(訳注:17人の青少年を殺害した連続殺人犯)に判事の気まぐれで恩赦を受けさせたいと思いますか。ソシニアンによれば、皆さんは偏狭で憎しみに満ちた悪いクリスチャンということになります。
神様の性質はその法、戒律の源泉です。嘘をつかない、騙さないというのは、神様がそのような方ではないからです。そしてもし神様がご自分の性質から生まれたその法を損なうのであれば、被造世界全体と最終的には自分自身を損なうことになります。それが私たちの言う原理というものです。
ですから私たちが自分の罪、神様から離れることが本当に犯罪だと理解するとき、なぜ神様が愛していると同時に悪を憎まなければならないかが理解できます。
少数の良いクリスチャンと、またダイエットコーラのクリスチャン、つまり軽いキリスト教ということですが、あるいは家庭詐欺連合は、5分だけでも考えてみることをしようとしないのです。神様が債権者で自分が負債を負っており、自分が神様を傷つけたということは問題なく、それはすべて許されます。今度は罪が犯罪であるというとき大きな問題になります。
最後のときに神様が十字架の道で用いなければならない人々がいたのはこのためです。イエス様は十字架の道を歩まなければなりませんでした。もちろんそれは神様の因果応報であり、イエス様が負った罪は、負債だけではなく、反目だけでなく、正義の神として罰しなければならない創造主に対する犯罪でありましたが、それを通して救いが得られるのです。
タレンタインは、神様は負債を免除する債権者の権利を持っていますが、宇宙の最高の統治者と裁判官として、神様は犯罪を見逃すことができないのだと言いました。神様の正義と善なる性質において、犯罪を見逃すことは不可能なのです。正直な裁判官が、誰が犯した犯罪であっても見逃すことができないのと同じことです。
私達は、自分の気に入った人を見逃すような裁判官を腐敗した裁判官と呼ぶのではないでしょうか。神様が宇宙で最高に偉大な存在であるなら、最高に正直で最高に正当でなければなりません。ですからそのように腐敗することはあり得ません。
そしてキリストについては、人間の犯罪を償う贖罪としての3つの役割があります。1番目に、負債に関しては、キリストは私たちの保証であり、負債に対する確かな返済であり、その支払いの保証なのです。誰かがあなたに貸しているとするとあなたは彼らに支払いを準備しますが、それが保証です。確実性が得られるということです。
反目については、キリストは仲裁人となります。裁判官と犯罪を犯した人の間に立ってその過程の仲裁人となります。
そして犯罪については、キリストは犠牲的な死によって犯罪に対する罰を償う司祭であり犠牲者です。
以上のことからキリストは私達の罪の免除と救いに対する3つの関係性を持っているということです。興味深いこと思いませんか。
もっと深く探求すれば、キリストにどれほど価値があるのか、再臨のイエス様がどれほどかけがえないのかが分かります。再臨のイエス様も同じイエス様です。キリストはそれほど重要です。絶対に不可欠なのです。キーホルダーのアクセサリーではありません。
さて、身代わりの償いの問題ですが、神様が何の罪も犯していない無実の人に罪を負わせることは公平なことでしょうか。善なる神様がそのようなことができるというのでしょうか。
あなたが何か罪を犯したら、裁判官が「身代わりの償いをさせることにします」と言って、町を歩いている人を見て「あの人を捕まえて連れてきなさい」、「あなたはこの人の代わりに罪を償いなさい」と言ったとすれば、それを偉い裁判官だと言うでしょうか。それはその裁判官の正当性と道徳的性質を示すのでしょうか。それは奇妙なことです。法律学的に見ても良い裁判官とも良い人とも思えません。
このような身代わり(代理人)が成立するために必要な5つの要素とは何でしょうか。
1番目に、罪が同じ性質で罰せられるために、罪人と代理人に共通の性質がなければなりません。そしてもちろん、動物の生贄では十分でありません。
2番目に、代理人の自由意思による同意が必要とされます。その人は自由意思のボランティアでなければなりません。先程のたとえ話で裁判官が町で誰かを適当に選んで罪を償わせると言う話をしましたが、問題はその人が自発的にやっていないことだということが分かります。裁判官が自分の権限でそうすることを申し付けたとすれば、そのような裁判官は悪でしょうか善でしょうか。他人の権利を侵害しているのですから全くの悪です。彼は正義を司っているのですから、それは悪だと言えるのです。
ですから同じように私達とその罪、犯罪のために身代わりになろうとする人は、そこに自由意思による同意がなければならず、自発的にそうすることを選択していなければならないのです。
3番目に代理人は、正当にそれに甘んじることを決定できる、自分自身の人生に対する力を持っていなければなりません。彼は同意しているだけでなく力を持っていなければなりません。18歳以下であるために代理になるために両親がサインするようなこととは違います。
4番目に代理人は、私達すべての人に由来するすべての罰に耐える力を持っていなければなりません。それはつまり、神人(キリスト)が要求されるということです。普通の人は自分自身の罪の重荷を持っていますのでそれができません。それに加えて私達すべての人の罪の身代わりになろうというのですから、私達によるすべての罰を償うことはできないのです。それは彼が自分の罪も持っているからです。
キリストについて言えば、それはお父様の言う本体であって、神様が地上に現れた本体である方は自分自身の罪の重荷を持っていないのです。これは独生女についてもまったく同じで、韓お母様は、お父様は罪があるが自分は罪が無いと言っており、罪が無いという問題全体が非常に大きいということなのです。なぜならそれが神人を決定し、誰がキリストであるのか否かを決定するからです。
ですから代理人は力を持たなければなりません。それは簡単です。すべての罪の罰を耐えることができるために、罪がないこと、完全に無実であることです。なぜなら彼が私達の罪を、世界中の罪を負っていながら更に自分自身の罪も負うなら、彼はすべての罪による罰に耐えることはできないからです。ですから彼は罪が無い者でなければならず、それで彼はすべての罪を負うことができ、すべての罪に対して正義が下されるようにできるのです。
5番目に代理人は他人にも自分にも満足を与える必要がないように、罪のない人でなければなりません。彼は神様に何の負債も持たない人でなければならず、罪のない人でなければなりません。それは4番目ともつながりがありますが、これで身代わりの償いがある場合に必要な5つの主要な点が分かりました。
神様とイエス様との関係性という観点だけではなく、私達はお父様の価値が分かります。お父様がどのような道を歩まなければならないか理解するとき、それは私たちが蕩減の道と呼んでいるものです。そしてお父様がどのような正義を自分自身にもたらさなければならなかったのか。お父様は罪人や人類と共通の性質を持っておられました。ですからその代理となることができ、そして有罪であるという同じ性質で罰を受けることができました。
お父様は自分で選択しなければならない自由意思による同意をしていました。それは人間の側として選択しなければならなかったのです。イエス様がゲッセマネの園で御心のままになさってくださいと言って選択しなければならなかったのと同じです。この盃を去らせてくださいと求め、自由に、自由な働きとして決定しなければなりませんでした。
これは非常に重要な問題なのです。なぜなら、前のスライドに戻りますが・・・絶対に間違いのないバロメーターと言う話があります。バロメーターというものを知っていますか。それは気圧を教えてくれるものです。絶対に間違いのないバロメーターというものがあったとします。つまりどのような環境であっても、100パーセントの正確さで未来の気圧の予測を示してくれるということです。それは今から1分後、10分後、そして100年後や1万年後の気圧が分かるのです。絶対に間違いのないものです。
ここでの問題は、信仰という点で私たちが神学的運命論と呼ばれるものに陥ってしまうかもしれないということです。それは決定論とはことなるものです。神学的な運命論と言うのは、神様は私が選ぶものを知っていて、私が選ぶものを運命づけているというようなことです。ですからもう最初から終わっているのです。私がやることも分かっているので私は自由意思を持ってはいないということです。それが神学的運命論と呼ばれるものです。
その問題は、この絶対に正確なバロメーターの例を理解していないということです。そのバロメーターは今日も明日も、1000年後も1万年後の気圧も分かりますが、それはそのバロメーターがその気圧を作っているわけではないのです。それがここでの勘違いです。それが私たちの自由な働きの話の良いたとえになっています。それはもちろん身代わりの償いの2番目のポイントです。
自由な働きは、私達がロボットのようにならず、神様と愛を授受するために重要です。それは天一国憲法の根本です。神様が人間に与えた贈り物と言う点で。もちろん神様がその中心です。
しかし、もしあなたが試練を受けた最後のときに立ち上がったことを神様が知っていたら・・・しかし神様はそれが起こるようにしたのでしょうか。神様は知ってはいたのです。しかし、それが起こるようにしたのではありません。
王妃がおいしい寿司をここに持っていて、とてもおなかがすいていたとします。地虫かミールワーム、爬虫類とか・・・いっそミミズのパスタだとしましょう。彼女はその2つの料理から選ぶのですが、私は間違いなく100パーセント、彼女がミミズのスパゲッティではなく寿司を選ぶことを知っています。しかし、私が彼女に寿司を選ぶようにさせたわけではありません。私は彼女のことを良く知っていただけです。少なくともそこで彼女が寿司を選ぶとはっきり分かっていました。
神様は私たちが何をしようとしているか分かっていますが、しかしそれは神様がそれをもたらしたのでしょうか。神様は私たちのことをとてもよく知っておられるので、私たちが何をするか分かるのです。しかし、私たちがそれを行うことを選ばなければならないという意味で、そこには依然として自由の働きがあります。
その様な意味で神様は、予知はできても、ある結果になるように運命づけることはできないのです。前もって知ることはできてもそれをもたらす事はできず、私達は依然として自由な働きを持つのです。これが絶対に間違いのないバロメーターのたとえについて人々が間違うことなのです。彼らは神学的運命という観点からそれを理解しています。そして予知と因果関係の性質を理解していません。神様の予知は物事が起こる原因とはなりません。最終的に私達は選択しなければならず、自由意思が働くのです。代理に対して自由な同意が要求されるということです。
さて成約の時代で天一国の王国についてこれを考えてみましょう。なぜキリストの身代わりの償いの性質には自由な働きがなければならないのか分かるでしょう。それは私たちが救われるために絶対に重要です。キリストの側での自由な働き、そして私たちの側でもそれを受け入れることを決定しなければなりません。
あなたが法廷にいて裁判官がその裁判を検証していると、誰かがその犯罪に対して自分が身代わりになると言います。しかしあなたは、いや、その人に身代わりになって欲しくないと言うことができるのです。それは人々がキリストを拒絶する場合に起こることです。するとあなたはその負債と反目、そして犯罪に対して完全に責任を負うことになるのです。
自由な働きと言う要素は神様とその息子が自由意思を持つという一方通行ではなく、私たちが救われるようにするための自由意思を持たなければならないということなのです。神様や裁判官が、私たちが受け入れると言うか、受け入れないと言うかを知っているかは重要ではありません。それが原因とはなりません。それは運命論ではないのです。神様はそれを知っているだけで、それを引き起こすのではないのです。
すべての状況を天一国の神様の王国に照らしてみると、また終わりの日に起こるすべての状況において、神様はここにいるすべての一族が選択するということは知っておられ、家庭詐欺連合が拒否することを選択すると知っておられましたが、神様がそれをもたらしたのではないということが分かります。そこにはまだ5パーセントの責任分担があるのです。
しかし同様に、神様は私達のことを良く知っておられるので、最終的に私たちが正しいことをすると分かっておられたのです。
そのようにして私達は創造主の美と知識の両方の中にあります。ペテロへの第2の手紙の聖句で「わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい」とあります。3章18節でしょうか。
私達がキリストの中心性を理解するとき、なぜ彼は私達の永遠の生命にとって重要なのでしょうか。完璧な神様、完璧な法廷、完璧な審判の前に全く正当な永遠の罰を避けるために。どれほどキリストの性質と人格とその関係性が中心であるのか。そういうわけですべての神の形に作られた人の心には穴があります。それは他のものでは満たされず、他のものでは代えられません。
タレンタインは次のような考えを提起しています。私達が神様の前に来てキリストを受け入れるときだけではなく、私達がお父様の権威の下に立つときに私達は罪を軽減されているのか、つまり罪が洗い流されているのかというだけでなく、私達には正義、忍耐として知られているものがあり、つまりキリストにますます似ていくということです。
それは通常、神聖化、義認と呼ばれており、罪を赦免することですが、ゼロにするということではありません。神聖化の過程は、いわば神様が債権者として持っている神様の肯定的な信用と肯定的な資産の転嫁です。
それは私達に転嫁されますが、ゼロになるのではなく、肯定的な評価になります。私達の人生にキリストを持てば多くのことが起こるのです。キリストを持たない人々は、この保証のない、仲裁人のない、罰を支払う償いのない、空虚の中に生きています。
毎日このようなことを深く熟考することができ、キリストの唯一性について考えれば考えるほど、もっと多くの喜びが心から自然にわき出て、もっと賛美の歌を歌いたくなります。私は先日キングズ・レポートで歌っていました(笑)。私は聖霊の声がするといつでも歌います。
自然とあなたの心が神様を賛美し神様に感謝しなければなりません。神様への賛美を歌うのです。私達が恵みと知識を深め、その知識・・・それは私達の父の尊さを理解することです。
立ち上がってすべてを救われた神様とキリストに栄光を捧げましょう。アーメン、アージュ。
*イエス・キリスト、再臨主の以上の代贖は、再臨主の王権とともにあることにより永遠性を持つことができるという内容です。
以上の代贖の内容を理解して、このQ&Aを読めば、どうして三代王権の血統に繋がる信仰が絶対的に必要かより理解できるでしょう。
同じくサンクチュアリNEWSからの転載です。
さて、身代わりの償いの問題ですが、神様が何の罪も犯していない無実の人に罪を負わせることは公平なことでしょうか。善なる神様がそのようなことができるというのでしょうか。
あなたが何か罪を犯したら、裁判官が「身代わりの償いをさせることにします」と言って、町を歩いている人を見て「あの人を捕まえて連れてきなさい」、「あなたはこの人の代わりに罪を償いなさい」と言ったとすれば、それを偉い裁判官だと言うでしょうか。それはその裁判官の正当性と道徳的性質を示すのでしょうか。それは奇妙なことです。法律学的に見ても良い裁判官とも良い人とも思えません。
このような身代わり(代理人)が成立するために必要な5つの要素とは何でしょうか。
1番目に、罪が同じ性質で罰せられるために、罪人と代理人に共通の性質がなければなりません。そしてもちろん、動物の生贄では十分でありません。
2番目に、代理人の自由意思による同意が必要とされます。その人は自由意思のボランティアでなければなりません。先程のたとえ話で裁判官が町で誰かを適当に選んで罪を償わせると言う話をしましたが、問題はその人が自発的にやっていないことだということが分かります。裁判官が自分の権限でそうすることを申し付けたとすれば、そのような裁判官は悪でしょうか善でしょうか。他人の権利を侵害しているのですから全くの悪です。彼は正義を司っているのですから、それは悪だと言えるのです。
ですから同じように私達とその罪、犯罪のために身代わりになろうとする人は、そこに自由意思による同意がなければならず、自発的にそうすることを選択していなければならないのです。
3番目に代理人は、正当にそれに甘んじることを決定できる、自分自身の人生に対する力を持っていなければなりません。彼は同意しているだけでなく力を持っていなければなりません。18歳以下であるために代理になるために両親がサインするようなこととは違います。
4番目に代理人は、私達すべての人に由来するすべての罰に耐える力を持っていなければなりません。それはつまり、神人(キリスト)が要求されるということです。普通の人は自分自身の罪の重荷を持っていますのでそれができません。それに加えて私達すべての人の罪の身代わりになろうというのですから、私達によるすべての罰を償うことはできないのです。それは彼が自分の罪も持っているからです。
キリストについて言えば、それはお父様の言う本体であって、神様が地上に現れた本体である方は自分自身の罪の重荷を持っていないのです。これは独生女についてもまったく同じで、韓お母様は、お父様は罪があるが自分は罪が無いと言っており、罪が無いという問題全体が非常に大きいということなのです。なぜならそれが神人を決定し、誰がキリストであるのか否かを決定するからです。
ですから代理人は力を持たなければなりません。それは簡単です。すべての罪の罰を耐えることができるために、罪がないこと、完全に無実であることです。なぜなら彼が私達の罪を、世界中の罪を負っていながら更に自分自身の罪も負うなら、彼はすべての罪による罰に耐えることはできないからです。ですから彼は罪が無い者でなければならず、それで彼はすべての罪を負うことができ、すべての罪に対して正義が下されるようにできるのです。
5番目に代理人は他人にも自分にも満足を与える必要がないように、罪のない人でなければなりません。彼は神様に何の負債も持たない人でなければならず、罪のない人でなければなりません。それは4番目ともつながりがありますが、これで身代わりの償いがある場合に必要な5つの主要な点が分かりました。
神様とイエス様との関係性という観点だけではなく、私達はお父様の価値が分かります。お父様がどのような道を歩まなければならないか理解するとき、それは私たちが蕩減の道と呼んでいるものです。そしてお父様がどのような正義を自分自身にもたらさなければならなかったのか。お父様は罪人や人類と共通の性質を持っておられました。ですからその代理となることができ、そして有罪であるという同じ性質で罰を受けることができました。
お父様は自分で選択しなければならない自由意思による同意をしていました。それは人間の側として選択しなければならなかったのです。イエス様がゲッセマネの園で御心のままになさってくださいと言って選択しなければならなかったのと同じです。この盃を去らせてくださいと求め、自由に、自由な働きとして決定しなければなりませんでした。
これは非常に重要な問題なのです。なぜなら、前のスライドに戻りますが・・・絶対に間違いのないバロメーターと言う話があります。バロメーターというものを知っていますか。それは気圧を教えてくれるものです。絶対に間違いのないバロメーターというものがあったとします。つまりどのような環境であっても、100パーセントの正確さで未来の気圧の予測を示してくれるということです。それは今から1分後、10分後、そして100年後や1万年後の気圧が分かるのです。絶対に間違いのないものです。
ここでの問題は、信仰という点で私たちが神学的運命論と呼ばれるものに陥ってしまうかもしれないということです。それは決定論とはことなるものです。神学的な運命論と言うのは、神様は私が選ぶものを知っていて、私が選ぶものを運命づけているというようなことです。ですからもう最初から終わっているのです。私がやることも分かっているので私は自由意思を持ってはいないということです。それが神学的運命論と呼ばれるものです。
その問題は、この絶対に正確なバロメーターの例を理解していないということです。そのバロメーターは今日も明日も、1000年後も1万年後の気圧も分かりますが、それはそのバロメーターがその気圧を作っているわけではないのです。それがここでの勘違いです。それが私たちの自由な働きの話の良いたとえになっています。それはもちろん身代わりの償いの2番目のポイントです。
自由な働きは、私達がロボットのようにならず、神様と愛を授受するために重要です。それは天一国憲法の根本です。神様が人間に与えた贈り物と言う点で。もちろん神様がその中心です。
しかし、もしあなたが試練を受けた最後のときに立ち上がったことを神様が知っていたら・・・しかし神様はそれが起こるようにしたのでしょうか。神様は知ってはいたのです。しかし、それが起こるようにしたのではありません。
王妃がおいしい寿司をここに持っていて、とてもおなかがすいていたとします。地虫かミールワーム、爬虫類とか・・・いっそミミズのパスタだとしましょう。彼女はその2つの料理から選ぶのですが、私は間違いなく100パーセント、彼女がミミズのスパゲッティではなく寿司を選ぶことを知っています。しかし、私が彼女に寿司を選ぶようにさせたわけではありません。私は彼女のことを良く知っていただけです。少なくともそこで彼女が寿司を選ぶとはっきり分かっていました。
神様は私たちが何をしようとしているか分かっていますが、しかしそれは神様がそれをもたらしたのでしょうか。神様は私たちのことをとてもよく知っておられるので、私たちが何をするか分かるのです。しかし、私たちがそれを行うことを選ばなければならないという意味で、そこには依然として自由の働きがあります。
その様な意味で神様は、予知はできても、ある結果になるように運命づけることはできないのです。前もって知ることはできてもそれをもたらす事はできず、私達は依然として自由な働きを持つのです。これが絶対に間違いのないバロメーターのたとえについて人々が間違うことなのです。彼らは神学的運命という観点からそれを理解しています。そして予知と因果関係の性質を理解していません。神様の予知は物事が起こる原因とはなりません。最終的に私達は選択しなければならず、自由意思が働くのです。代理に対して自由な同意が要求されるということです。
さて成約の時代で天一国の王国についてこれを考えてみましょう。なぜキリストの身代わりの償いの性質には自由な働きがなければならないのか分かるでしょう。それは私たちが救われるために絶対に重要です。キリストの側での自由な働き、そして私たちの側でもそれを受け入れることを決定しなければなりません。
あなたが法廷にいて裁判官がその裁判を検証していると、誰かがその犯罪に対して自分が身代わりになると言います。しかしあなたは、いや、その人に身代わりになって欲しくないと言うことができるのです。それは人々がキリストを拒絶する場合に起こることです。するとあなたはその負債と反目、そして犯罪に対して完全に責任を負うことになるのです。
自由な働きと言う要素は神様とその息子が自由意思を持つという一方通行ではなく、私たちが救われるようにするための自由意思を持たなければならないということなのです。神様や裁判官が、私たちが受け入れると言うか、受け入れないと言うかを知っているかは重要ではありません。それが原因とはなりません。それは運命論ではないのです。神様はそれを知っているだけで、それを引き起こすのではないのです。
すべての状況を天一国の神様の王国に照らしてみると、また終わりの日に起こるすべての状況において、神様はここにいるすべての一族が選択するということは知っておられ、家庭詐欺連合が拒否することを選択すると知っておられましたが、神様がそれをもたらしたのではないということが分かります。そこにはまだ5パーセントの責任分担があるのです。
しかし同様に、神様は私達のことを良く知っておられるので、最終的に私たちが正しいことをすると分かっておられたのです。
そのようにして私達は創造主の美と知識の両方の中にあります。ペテロへの第2の手紙の聖句で「わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい」とあります。3章18節でしょうか。
私達がキリストの中心性を理解するとき、なぜ彼は私達の永遠の生命にとって重要なのでしょうか。完璧な神様、完璧な法廷、完璧な審判の前に全く正当な永遠の罰を避けるために。どれほどキリストの性質と人格とその関係性が中心であるのか。そういうわけですべての神の形に作られた人の心には穴があります。それは他のものでは満たされず、他のものでは代えられません。
タレンタインは次のような考えを提起しています。私達が神様の前に来てキリストを受け入れるときだけではなく、私達がお父様の権威の下に立つときに私達は罪を軽減されているのか、つまり罪が洗い流されているのかというだけでなく、私達には正義、忍耐として知られているものがあり、つまりキリストにますます似ていくということです。
それは通常、神聖化、義認と呼ばれており、罪を赦免することですが、ゼロにするということではありません。神聖化の過程は、いわば神様が債権者として持っている神様の肯定的な信用と肯定的な資産の転嫁です。
それは私達に転嫁されますが、ゼロになるのではなく、肯定的な評価になります。私達の人生にキリストを持てば多くのことが起こるのです。キリストを持たない人々は、この保証のない、仲裁人のない、罰を支払う償いのない、空虚の中に生きています。
毎日このようなことを深く熟考することができ、キリストの唯一性について考えれば考えるほど、もっと多くの喜びが心から自然にわき出て、もっと賛美の歌を歌いたくなります。私は先日キングズ・レポートで歌っていました(笑)。私は聖霊の声がするといつでも歌います。
自然とあなたの心が神様を賛美し神様に感謝しなければなりません。神様への賛美を歌うのです。私達が恵みと知識を深め、その知識・・・それは私達の父の尊さを理解することです。
立ち上がってすべてを救われた神様とキリストに栄光を捧げましょう。アーメン、アージュ。
*イエス・キリスト、再臨主の以上の代贖は、再臨主の王権とともにあることにより永遠性を持つことができるという内容です。
以上の代贖の内容を理解して、このQ&Aを読めば、どうして三代王権の血統に繋がる信仰が絶対的に必要かより理解できるでしょう。
同じくサンクチュアリNEWSからの転載です。
み言を訓読していれば、王国も王権も必要ないのか?
-5月26日亨進様ヨナ様質疑応答から
King And Queen's Q&A 5/26/2017
知らなければならないことは、摂理には中心人物がいるということです。
そこを通して摂理は進みます。一般に人は自分が「中心人物」だと思い込んでいます、そうでないにもかかわらず。分かりますか。
それは偶像崇拝と同じです。自分が中心だというのです。自分さえ完成すれば、神様の王権も王国も、メシアも神様も必要ないという。
そうすると神様の祝福から遠ざかるのです。それも自分の選択です。息子さんがどういう意味で言ったのか私は詳しくは知りませんから、ここで問題をはっきりさせました。
韓オモニは、摂理において他の女性と異なっています。摂理において中心的役割を担っていたのです。原理もそう教えています。中心人物がもし失敗すると、世界に壊滅的な結果をもたらします。なぜなら中心的位置に選ばれているからです。
だからただ「あなたも完成できる」という聖句に固執して、自分も中心人物だなどと考えるなら…実際そう考えている人もいるのです。それは愚かな考えであり、天使長的です。中心摂理から離れるからです。そこではあなたが中心ではありません。
中心摂理は、真のお父様と、その王統を通してもたらされる実体の王国です。ここが理解できないところがキリスト教世界観が分からない人々の問題です。多くの日本人食口、キリスト教の背景をもたないアジアの食口の陥るところです。キリストの中心性を重んじなければなりません。キリストなしでは、価値なき者にすぎません。汚れたボロ切れであり、神様の前のただの罪人に過ぎません。たとえ完璧に善行を行ったとしても、仏教の瞑想、神道の祈りを続けても、ただ「人間的完璧に近い」というだけです。マザーテレサの10倍、善行を積んだとしても、神様の前では汚れた罪深い存在にすぎないのです。自己崇拝するとき、自己中心の思いに満ち、嘘をつき、神の栄光を奪っているからです。父の栄光を自分のものにしているのです。大きな罪人です。パリサイ人の問題は、他の宗教者もそうですが、自分が何か相応しいことをしたから救いを得る、と思っているところです。それがキリスト教と、他の多くの宗教との違いです。とてつもなく大きな違いです。すべての宗教は、善い行いをすれば、良い見返りがあると教えます。
善行を行なえば、救いも得るし天国にも行ける、解脱者になると。すべては自分の行いに基づいているのです。すべて自分次第です。すべての宗教がこう教えています。一体なぜお父様が王権を打ち立てたのか分からなければ、その人はまだ堕落した宗教圏内にいるのです。キリストの中心性を理解していないからです。キリスト教的世界観をもっていません。だから王権がなぜそこまで重要なのかが分からないのです。神の摂理、神様の世代を超えてつづく王国と王権とから離れて個人の完成はありません。それは神様ご自身が立てられたものではないですか。中心になりたいというのは人間の傲慢です。私たちは中心を選ぶことはできないのです。中心は神様が選ぶのです。私が中心になることを選択したのではありません。神様が私を中心に選んだのです。私が望んだことではありません。ただそれを果たさなければばらないからここにいるのです。私の選択ではないのです。ここが善行に基づく他の異教との違いです。そこでは自分の行いが自分を清めるといいます。キリスト教は現実を突きつけます。マザーテレサもキリストを抜いては罪人に過ぎないのです。すべての善行を行い、何百の孤児院を建てたとしても、まだ利己的で、政治的に動き、神様の栄光を自分の物とし、生命と祝福を与えて下さった真の栄光に相応しいお方にそれを返さない限り…神様とは関係ないところでの自己完成など何の価値もないのです。
パリサイ人も自分たちは完全だと思っていたのです。神のみ言葉をもち、モーセのみ言葉をもっていると自負していました。そして生きた神殿、生きたキリスト、神様の実体であるイエスに従わなかったことが問題だったのです。屈服しなかった。
確かにお父様はわれわれにみ言葉を残されました。しかしその実体も残されたのです。それが私です。そして息子、信俊を残されました、お父様が選んだのです。お父様のみ言葉を訓読したから、お父様の権威に戻れたのではないのです。家庭詐欺連合もみ言葉を訓読しているのです。皆さんがいまお父様の権限のもとにいるのは、お父様御自身が立てられた摂理のラインにつながっているからです。私が立てたラインではありません、お父様が立てられたのです。分かりますね。だから王権が非常に重要なのです。それは皆さんが世代を超えてお父様に仕える道なのです。万王の王の直系である天一国の王を通して。皆さんの権利は天一国憲法から来るのであって、6年かけて自分を完成させ、ブッダのように、あなたが成ったからではないのです。
キリストが全人類のためにすべての苦難を受け、血を流し、一万の十字架を超えられて、皆さんに恩恵として与えられたから、そして王国と王権をたてられたからなのです。だからあなたの権利が守られるのです。あなた方が何かを成したからではないのです。それにふさわしい善行を行ったわけではありません。皆さんが偉大だからではなく、キリストが偉大だからです。これが違いです。
仏教や神道など、他のすべての宗教との違い・・・皆さん様々な文化圏から来ているので、宗教や信仰の理解がそれぞれの文明に基礎を置いています。その背景からじぶんを切り離さなければなりません。それは神様の文明ではないからです。お父様のみ言葉を読むからと言って天国に行けるのではありません。悪魔もお父様のみ言葉を読むのです。家庭詐欺連合は、3冊の異端の経典をもっていますが、それがお父様のみ言葉だと主張して、そのみ言葉を読んでいます。しかしお父様の王国にも、お父様の館にも入ることは許されません。
お父様のみ言葉を読むことが必ずしも、お父様の家に入るとは限らないのです。大きな違いです。
お父様はみ言葉だけを遺(のこ)されたのではありません。肉的王統も遺されたのです。私は二代目の王ですが、あとに何代、何十代と続くことでしょう。だから未来のすべての世代が、万王の王の直系ラインに実体的につながることができるのです。すべての王国の中心、全世界、全天宙、神様の御旨と創造目的の中心です。それがキリストです。キリスト教では、イエス様を抜いては、人間に何の価値もないのです。私もそうです。仏教や神道など他の異教では、あなたは何にでもなることができます。神様を超えることもできるというのです。神にもなり、完全になるというのです。非キリスト教の文化圏のアジアの兄弟姉妹にとって、「完成」という言葉は本質的に仏教的、神道的に響くのかもしれません。そこを意識しなければなりません。聖書的ではないのです。だから「六世代で、清くなり完成する」ということが重要なのではありません。むしろ重要なものは、神の国と血統、摂理の流れの中心、摂理の動きと共に、血統を通して世代を超えて動くこと、これです。
質問の詳しいニュアンスまでわかりませんが、とにかく、これについて、全く的外れな主張をする人たちもいるので、その人たちに向けて、こういう答え方をしました。これで答えになりましたか? どうですか。
(ヨナニム)
私からも、短くお答えします。王様の発言に関連することです。みなそれぞれ、お父様のみ言葉を訓読していると言っています。郭グループも訓読しています。様々な分派も、お父様のみ言葉を訓読して、どうだこうだと言っています。しかし本当にお父様をメシアとして信じ、み言葉を大切に思うのなら、その人にとってお父様の代身者こそもっとも貴重なものではないでしょうか。「(亨進ニムは)代身者だ」というのもお父様のみ言葉です。しかもそれはほとんど遺言に近いものではありませんか。真のお父様が本当にメシアであり、そのみ言葉を重要と思うのなら、このみ言葉こそ最も重要なみ言葉ではないでしょうか。だから六世代み言葉を信じていれば完成するなどと納得するのは矛盾しています。亨進二代王がいつも言われるように、王の位置は自分で決めたものではなく与えられたものです。これは私たちの行いに由来するものではないのです。純粋に神様の賜物であり、ここで、お父様に選ばれた、などとと言って誇っているのではないのです。「お父様はあなたを選んでいません、残念でした」などと言いたいのではないのです。私たちはただお父様のみ言葉を皆さんと共に地上で尊重したいのです。だからここにいるのです。
(二代王)
5%の責任分担があります。お父様はその責任を私にくださいました。私はその5%を果たさなければなりません。もちろん私が失敗しても摂理は継続します。王妃も同様に三大王が王位を継承するとき彼女の責任を果たさなければなりません。責任分担があり、自由意志があるのです。しかし、あなたの質問を正しく理解しているならば…郭グループも三代王権は必要ないと言っています。韓オモニも王権は必要ないと言います。ただみ言葉だけで十分だというのです。そういいながら、自分の都合のいいようにみ言葉を選びだしたり、切り捨てたりしているのです。自分達に好ましいみ言葉を選んでいるのです。すなわち郭グループであれ異端者であれ違いはないのです。どちらもお父様の家に入ることはできません。この(質問内容)ようなことを言う者も同じです。
「モーセの律法があるから、われわれにはイエスは必要ない」とかつてユダヤ人が主張したことと同じです。同じことをしているのです。決して「必要ない」ことなどないのです。イエス様が絶対的に必要であることはキリスト教徒なら皆知っています。イエス様を抜きにして神様の下に帰ることなどできないのです。イエス様が必要です。イエス様は王国を創建し、王権を立てられました。地上の実体的な王国をみ言葉と共に。み言葉と王権は切り離すことができません。人が選べることではありません。お父様はそうされませんでした。自分の好きにはできないのです。もしそうするのなら、異端を選択したということです。すべてあなたの選択次第です。
励ましのクリック聖霊感謝です。
知らなければならないことは、摂理には中心人物がいるということです。
そこを通して摂理は進みます。一般に人は自分が「中心人物」だと思い込んでいます、そうでないにもかかわらず。分かりますか。
それは偶像崇拝と同じです。自分が中心だというのです。自分さえ完成すれば、神様の王権も王国も、メシアも神様も必要ないという。
そうすると神様の祝福から遠ざかるのです。それも自分の選択です。息子さんがどういう意味で言ったのか私は詳しくは知りませんから、ここで問題をはっきりさせました。
韓オモニは、摂理において他の女性と異なっています。摂理において中心的役割を担っていたのです。原理もそう教えています。中心人物がもし失敗すると、世界に壊滅的な結果をもたらします。なぜなら中心的位置に選ばれているからです。
だからただ「あなたも完成できる」という聖句に固執して、自分も中心人物だなどと考えるなら…実際そう考えている人もいるのです。それは愚かな考えであり、天使長的です。中心摂理から離れるからです。そこではあなたが中心ではありません。
中心摂理は、真のお父様と、その王統を通してもたらされる実体の王国です。ここが理解できないところがキリスト教世界観が分からない人々の問題です。多くの日本人食口、キリスト教の背景をもたないアジアの食口の陥るところです。キリストの中心性を重んじなければなりません。キリストなしでは、価値なき者にすぎません。汚れたボロ切れであり、神様の前のただの罪人に過ぎません。たとえ完璧に善行を行ったとしても、仏教の瞑想、神道の祈りを続けても、ただ「人間的完璧に近い」というだけです。マザーテレサの10倍、善行を積んだとしても、神様の前では汚れた罪深い存在にすぎないのです。自己崇拝するとき、自己中心の思いに満ち、嘘をつき、神の栄光を奪っているからです。父の栄光を自分のものにしているのです。大きな罪人です。パリサイ人の問題は、他の宗教者もそうですが、自分が何か相応しいことをしたから救いを得る、と思っているところです。それがキリスト教と、他の多くの宗教との違いです。とてつもなく大きな違いです。すべての宗教は、善い行いをすれば、良い見返りがあると教えます。
善行を行なえば、救いも得るし天国にも行ける、解脱者になると。すべては自分の行いに基づいているのです。すべて自分次第です。すべての宗教がこう教えています。一体なぜお父様が王権を打ち立てたのか分からなければ、その人はまだ堕落した宗教圏内にいるのです。キリストの中心性を理解していないからです。キリスト教的世界観をもっていません。だから王権がなぜそこまで重要なのかが分からないのです。神の摂理、神様の世代を超えてつづく王国と王権とから離れて個人の完成はありません。それは神様ご自身が立てられたものではないですか。中心になりたいというのは人間の傲慢です。私たちは中心を選ぶことはできないのです。中心は神様が選ぶのです。私が中心になることを選択したのではありません。神様が私を中心に選んだのです。私が望んだことではありません。ただそれを果たさなければばらないからここにいるのです。私の選択ではないのです。ここが善行に基づく他の異教との違いです。そこでは自分の行いが自分を清めるといいます。キリスト教は現実を突きつけます。マザーテレサもキリストを抜いては罪人に過ぎないのです。すべての善行を行い、何百の孤児院を建てたとしても、まだ利己的で、政治的に動き、神様の栄光を自分の物とし、生命と祝福を与えて下さった真の栄光に相応しいお方にそれを返さない限り…神様とは関係ないところでの自己完成など何の価値もないのです。
パリサイ人も自分たちは完全だと思っていたのです。神のみ言葉をもち、モーセのみ言葉をもっていると自負していました。そして生きた神殿、生きたキリスト、神様の実体であるイエスに従わなかったことが問題だったのです。屈服しなかった。
確かにお父様はわれわれにみ言葉を残されました。しかしその実体も残されたのです。それが私です。そして息子、信俊を残されました、お父様が選んだのです。お父様のみ言葉を訓読したから、お父様の権威に戻れたのではないのです。家庭詐欺連合もみ言葉を訓読しているのです。皆さんがいまお父様の権限のもとにいるのは、お父様御自身が立てられた摂理のラインにつながっているからです。私が立てたラインではありません、お父様が立てられたのです。分かりますね。だから王権が非常に重要なのです。それは皆さんが世代を超えてお父様に仕える道なのです。万王の王の直系である天一国の王を通して。皆さんの権利は天一国憲法から来るのであって、6年かけて自分を完成させ、ブッダのように、あなたが成ったからではないのです。
キリストが全人類のためにすべての苦難を受け、血を流し、一万の十字架を超えられて、皆さんに恩恵として与えられたから、そして王国と王権をたてられたからなのです。だからあなたの権利が守られるのです。あなた方が何かを成したからではないのです。それにふさわしい善行を行ったわけではありません。皆さんが偉大だからではなく、キリストが偉大だからです。これが違いです。
仏教や神道など、他のすべての宗教との違い・・・皆さん様々な文化圏から来ているので、宗教や信仰の理解がそれぞれの文明に基礎を置いています。その背景からじぶんを切り離さなければなりません。それは神様の文明ではないからです。お父様のみ言葉を読むからと言って天国に行けるのではありません。悪魔もお父様のみ言葉を読むのです。家庭詐欺連合は、3冊の異端の経典をもっていますが、それがお父様のみ言葉だと主張して、そのみ言葉を読んでいます。しかしお父様の王国にも、お父様の館にも入ることは許されません。
お父様のみ言葉を読むことが必ずしも、お父様の家に入るとは限らないのです。大きな違いです。
お父様はみ言葉だけを遺(のこ)されたのではありません。肉的王統も遺されたのです。私は二代目の王ですが、あとに何代、何十代と続くことでしょう。だから未来のすべての世代が、万王の王の直系ラインに実体的につながることができるのです。すべての王国の中心、全世界、全天宙、神様の御旨と創造目的の中心です。それがキリストです。キリスト教では、イエス様を抜いては、人間に何の価値もないのです。私もそうです。仏教や神道など他の異教では、あなたは何にでもなることができます。神様を超えることもできるというのです。神にもなり、完全になるというのです。非キリスト教の文化圏のアジアの兄弟姉妹にとって、「完成」という言葉は本質的に仏教的、神道的に響くのかもしれません。そこを意識しなければなりません。聖書的ではないのです。だから「六世代で、清くなり完成する」ということが重要なのではありません。むしろ重要なものは、神の国と血統、摂理の流れの中心、摂理の動きと共に、血統を通して世代を超えて動くこと、これです。
質問の詳しいニュアンスまでわかりませんが、とにかく、これについて、全く的外れな主張をする人たちもいるので、その人たちに向けて、こういう答え方をしました。これで答えになりましたか? どうですか。
(ヨナニム)
私からも、短くお答えします。王様の発言に関連することです。みなそれぞれ、お父様のみ言葉を訓読していると言っています。郭グループも訓読しています。様々な分派も、お父様のみ言葉を訓読して、どうだこうだと言っています。しかし本当にお父様をメシアとして信じ、み言葉を大切に思うのなら、その人にとってお父様の代身者こそもっとも貴重なものではないでしょうか。「(亨進ニムは)代身者だ」というのもお父様のみ言葉です。しかもそれはほとんど遺言に近いものではありませんか。真のお父様が本当にメシアであり、そのみ言葉を重要と思うのなら、このみ言葉こそ最も重要なみ言葉ではないでしょうか。だから六世代み言葉を信じていれば完成するなどと納得するのは矛盾しています。亨進二代王がいつも言われるように、王の位置は自分で決めたものではなく与えられたものです。これは私たちの行いに由来するものではないのです。純粋に神様の賜物であり、ここで、お父様に選ばれた、などとと言って誇っているのではないのです。「お父様はあなたを選んでいません、残念でした」などと言いたいのではないのです。私たちはただお父様のみ言葉を皆さんと共に地上で尊重したいのです。だからここにいるのです。
(二代王)
5%の責任分担があります。お父様はその責任を私にくださいました。私はその5%を果たさなければなりません。もちろん私が失敗しても摂理は継続します。王妃も同様に三大王が王位を継承するとき彼女の責任を果たさなければなりません。責任分担があり、自由意志があるのです。しかし、あなたの質問を正しく理解しているならば…郭グループも三代王権は必要ないと言っています。韓オモニも王権は必要ないと言います。ただみ言葉だけで十分だというのです。そういいながら、自分の都合のいいようにみ言葉を選びだしたり、切り捨てたりしているのです。自分達に好ましいみ言葉を選んでいるのです。すなわち郭グループであれ異端者であれ違いはないのです。どちらもお父様の家に入ることはできません。この(質問内容)ようなことを言う者も同じです。
「モーセの律法があるから、われわれにはイエスは必要ない」とかつてユダヤ人が主張したことと同じです。同じことをしているのです。決して「必要ない」ことなどないのです。イエス様が絶対的に必要であることはキリスト教徒なら皆知っています。イエス様を抜きにして神様の下に帰ることなどできないのです。イエス様が必要です。イエス様は王国を創建し、王権を立てられました。地上の実体的な王国をみ言葉と共に。み言葉と王権は切り離すことができません。人が選べることではありません。お父様はそうされませんでした。自分の好きにはできないのです。もしそうするのなら、異端を選択したということです。すべてあなたの選択次第です。
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