魂の成長 Spiritual Growing 2015/7/26
ヨハネ15章
15:1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15:2わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。 15:3あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 15:4わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 15:5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 15:6人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。 15:7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 15:8あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
私たちがどのようにして清められるのかこの聖句には書かれています。またイエス様は「私につながっていなさい」とくりかえし述べておられます。10回、「つながる」という言葉が実際繰り返されて、一貫して「私につながっていなさい」というメッセージを伝えています。私たちはキリストにつながっている時、清められることはもちろん、真理と力を得ることができます。この考え方はアメリカの建国の基礎にもあったものです。
この間インド系アメリカ人デニッシュ・デスーザ(Dinesh D'Souza:哲学者、ジャーナリスト)とビル・エヤ―(Bill Ayers:コロンビア大学教授)の討論をたまたま見たのですが、素晴らし討論でした。「アメリカとは何か」というテーマで、アメリカは偉大な国か否かについての討論です。
ビル・エヤーは大きな政府で基本的には共産主義的に通じる、中央に権威を集めた大きな政府を擁護していました。それに対してデス―ザは「私はムンバイ(インド)で生まれた。私たちは確かに口では様々な文化をそれぞれ素晴らしいということもできる。しかし私がまだインドにいた時、アメリカからエール大学の学生が社会学的調査のためにやって来たことがあるすが、インドの子供たちはそのアメリカの大学生たちに群がって「このジーンズ売って下さい」「このカメラ下さい」と言います。学生が「インドにも素晴らしい文化があるのだからアメリカ文化を押しつけたくない・・」といってもかまわず「そのジーンズ売って下さい」と言う、というのです。
デスーザは、アメリカは史上初めて国が豊かになるパターンを変えた国だと主張します。過去にはある国が帝国となり他国を征服し搾取することで豊かになった。しかしアメリカがつくりだしたシステムはカースト制によらず、すべての国民に自由を与え、革新と価値を生み出す自由を保護した。これによって人類史上初めてアメリカは他国の犠牲にもとづくことなく豊かになった。
討論はアメリカの聖書的価値観を巡る話になりました。この国の基礎は何かということです。すべての人が創造主と関係を結び、神様から固有の権利を与えられている。決してそれは中央政府が恣意的に与えるものではない。権力に与えられるものではなく神様から与えられたものである。問題は現在のアメリカがその建国精神からいかに離れてしまったのかということにあります。時代に応じて憲法も修正を重ねてきましたが、建国の父達が自由の国をつくるために設定した原理は変わることはありません。これに対しビル・エヤーは「アメリカは原住インディアンを90%殺した・・」などとお決まりのセリフを並べますが、これらに対してデスーザは丁寧に反論していきます。この討論をYoutubeにアップしたのでまた観て下さい。
現在このアメリカ的価値が世界に広がっているのを見ることができます。他国を侵略、征服することなく富を平和な形で創出する方法を世界に教えたのです。ブラジル、中国、ロシア、インドも、それぞれが伝統的にもつ身分制度を越えてアメリカ建国の父の設定した自由市場原理を用いています。もちろん彼らのいう「西洋文化」そのものは拒否していますが。中国は過去の王朝のように周辺国を制圧するための軍事力を蓄えながら、他方で西洋の経済システムを導入して富を手に入れる、つまりいいとこ取りをしているというのです。アメリカは歴史上初めて征服に依らず国を豊かにし、国民が豊かになる道を見出した国だとデスーザはいいます。かれはそれでもアメリカに色々不満があるというなら、ムンバイで一度生活してみなさいと言って聴衆を笑わせました。ジーンズとカメラが恋しくなるでしょう。
今、アメリカは建国精神を失い、他国が力を伸ばしています。シュミータ(安息年)の終盤を迎え経済の崩落が加速しています。アメリカは神様から特別な恵みを受けた国ですが、神様から離れ警告を受けるようになりました。私たちが神様の道から離れ去っていることを警告されているのです。1973年以降中絶が合法化され何百万という赤ん坊の命が失われてきました。数週間前には(中絶した赤ん坊の)臓器移植に絡んで、臓器の不正売買が摘発されました。大きな事件となりアメリカの主要メディアも報道を余儀なくされました。驚くべきことに堕落した教会(家庭連合)はこれらの問題に関して一言も対外的に発言しません。かたやキリスト教会は必死に反対意見を発信しています。キリストと共にある真の聖職者は反論しているのです。その例の一つとしてユダヤ人でクリスチャンのブラウン博士の作成したビデオを見てみましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=Htcqhdf4WBE
ここに悪魔的な冷酷さを見ます。ビデオに登場する女性は人間の肝臓、中絶により体内で殺された赤ん坊の肝臓を取り出し、その売買の商談をサラダを食べながら話しています。信じられますか。完全に神様から離れてしまいました。こういうことが社会の主流になろうとしています。人の生命に対する完全なまでの無視がみられるのです。自由な社会にあっても体内の子供は守られなければなりません。人間としての権利を認めなければならないのです。
あのとんでもなくリベラルなクリストファー・ヒッチェンズ(Christopher Hitchens、1949年4月13日 - 2011年12月15日)でさえ晩年には科学的根拠に基づいて中絶賛成から反対に回りました。と言うのも胎児は中絶処置が早ければ早いほど(胎児が幼いほど)生存する確率が高まることが分かったからです。無神論者を公言してはばからないヒッチェンズですがこの科学的事実によって中絶反対を主張するようになりました。胎児も人間なのだから自由社会では生きる権利は保護されるべきだと。今や世界中の聖職者たちが連邦最高裁の判断に対して反対の声を上げています。ソドム、ゴモラすら超えたのです。ソドム、ゴモラですら同性婚は文化的風潮として容認されてこそいましたが法制化まではされていなかったといいます。アメリカはソドム、ゴモラを越えて行きました。
先日同性婚は生物学的にも合理的ではないことを示すビデオを見ましたが、それとは別にオーストラリアのジョン・ティーズという牧師が表した著書から見てみます。サタンは幻想を与え騙すことに掛けては彼の右に出る者はいません。中絶に関してはあたかも女性を気遣っているように思わせています。胎内にいる子供が生命をもった人間である事実を巧みに隠し、社会全体を欺いて、大衆文化のなかで、寛容、平等、自由を唱えながら事を進めます。
このオーストラリアの牧師さんは科学的側面から反論します。
「同性愛者の平均寿命は正常者よりも24年短い」
「ノルウェーでは通常の結婚をした男性の平均寿命は77歳で同性愛者の男性のそれは52歳である」
「ノルウェーでは通常の結婚をした女性の平均寿命は81歳で同性愛者の男性のそれは56歳である」
統計から言えることは同性愛は喫煙よりも危険であるということです。キャメロン博士は「同性愛による著しい短命化の事実をみるとき、喫煙習慣以上に同性愛の危険性を学生時代から強く警告しなければならない。同性愛に寛容なカリキュラムをもつ学区は優先順位を再考すべき」と述べています。また「HIVエイズの初期感染者の92%が同性愛者の男性であった」こと、「エイズに感染した同性愛者は1人当たり平均1200人と関係していた」
同性愛者は正常者の1000倍エイズに感染する確率が高い。
同性愛者が肛門ガンになる確率は正常者の50倍。
肛門ガンと同性愛との間に強い関連性が認められる。
同性愛者男性の50%がエイズウィルスのキャリアであり、肛門腫瘍を生じやすくそれがガンに転じやすい。
アメリカ国内の同性愛者は全体の1%だが国内の梅毒患者の50~80%を占める。
同性愛者による乱交と麻薬使用は制御不能状態である。
同性愛者男性は年平均20人以上と性交渉をもつ。そのうち75%は100人以上。また28%は一生のうち1000人以上と関係したという。
貞節はみられず性感染症が急速に拡大する。
66%が一年以内に他のパートナーと性関係をもつ。
5年以内には90%が浮気をする。
健康について言論する権利を圧力団体はヘイト・スピーチだとして抑圧するが、性感染症を拡大する者の「権利」を制限することを認めようとしない。
以上は聖書の観点から述べられたものではなく、医者が国民の保健と健康の立場から述べたものです。私たちはこの種の行為が及ぼす危険について教え広めなければなりません。
また「同性愛は先天的なもので自分ではどうすることも出来ない」という議論をよく聞きます。「生まれつきゲイなのだ」と。こういう意見を聞いた人はいますか。言い古された主張です。
もしこれが人の目の色のような先天性のものならば手の施しようがない、ここで議論は終わります、裁きの対象になり得ません。それは過ちでも意識的な選択でもないのですから。
(資料から)1999年、ウェスタンオンタリオ大学の神経学者ライスとエバースはヘイマーの研究結果を実験で検証中、主張された同性愛者に固有だとされる遺伝子を見つけることができなかった。同様にシカゴ大学のアラン・サンダースを中心とするチームも「同性愛」に結びつく遺伝子は見いだせないと結論付けた。また2005年、国家保健局の研究チームも2人以上の同性愛の子供を持つ146家庭を調査したところX遺伝子マーカーXq28と同性愛の関連性を認めることはできませんでした。
一部の科学者が主張するように同性愛は遺伝子による者だとするならば双子の遺伝子を調べればわかります。二人に共通する遺伝子もしくは遺伝子マーカーが見つかるからです。しかし調査の結果双子の一人が同性愛者(男性)の場合、もう一方が同性愛者(男性)である確率は38%であり、また女性の場合は30%であった。これらを見ても同性愛が遺伝によるものでないことは明らかです。
(資料から)人間の行動は遺伝子に左右されるものではなく、いわゆる「同性愛遺伝子」の存在は幻である事が科学によって明かされている。
この世の君であるサタンは大衆文化を利用して私たちを操作しようと試みます。中絶の問題でも裏では中絶された赤ん坊の心臓や肝臓が闇取引されています。同性愛者の問題にしても遺伝という生物学的な問題ではなく政治的な問題です。
もしわれわれが真実を無視して大衆文化の宣伝文句を信用し続けるならば、文明も法律も永続させることはできません。「真実に敬意を払い、真実に基づいて政策を立てることが価値の中心にならなければならない」「本当の原因は何か」「健康にとってのリスクは何か」「特定の性的指向に特権を与えるため法律を変えることが社会にもたらすリスクは何であるか」これらは重要なことです。私たちは遺伝子を語るのではなく、人生の選択を問題にしています。両親がいる家庭の子供とそうでない子供を比較する各種の統計がありますね。統計的にも男女が家庭を持つ方が社会に安定を与えるという結果が出ています。神様はこの件に関して明確です。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:23-24)と創世記の御言葉があります。サタンはこの基本的原則をくつがえして混乱をもたらし支配しようとするのです。最高裁のスカリア判事は同性婚を認める判決に際して反対にまわりましたが。彼はシュミータ(安息年)にこのような判決を下しアメリカが一線を越え、神様との契約を捨ててしまったことに対してこう語っています。
「この裁判所を見て下さい。9人の男女からなる裁判官は全員ハーバードおよびエールのロースクール出身者で成功を収めた法律家たちです。4人はニューヨーク市出身、また8人は西海岸または東海岸の州で育っています。その間の広大な地域の出身者は唯一人。この9人の判事の中にただの一人も福音派キリスト教徒はいません(アメリカ人の4分の1は福音派キリスト教徒)。他宗派のプロテスタントも一人もいないのです。9人の判事のうち6人はカトリック教徒で3人はユダヤ人です。どうしてこのような偏ったエリート集団がプロテスタントが多数を占める国民全体を拘束する法律を裁定することができるだろうか。同性婚という政治問題を多数派(プロテスタント)を代表しない党派性の強い9人の判事が決定することは「代表なくして課税なし」の基本原理よりもより根本的な原則を侵すものではないのか。今日の判決(同性婚を認める)は3億2千万のアメリカ人の支配者は最高裁判所の9人の多数決の多数派だと宣言するようなものだ。」
これは内的動揺の現われに過ぎません。繰り返し述べて来たようにお父様の聖和後、あらゆる削除行為、今日の聖句が強調する「キリストにつながれ」というみ言とは反対にお父様から離れました。堕落した教会は離れてしまいました。もはやキリストにつながっていません。
天聖経を80%削除
天一国国家の変更
家庭盟誓の変更
聖婚問答の変更
一神教からニ神教へ
憲法から原理を排除
従順な「対象」の位置から離れ自らを神、メシア、独生女と宣言
お父様の位置を簒奪
祝福からお父様の血統を排除
そして韓氏族を前面に出しました。
また祝福式の指輪には韓お母様のサインのみが刻まれています。これらを見ても文字通りお父様を削除したことが分かります。お父様から去り、キリスト、メシア、み言から離れてしまったことが分かります。このことが内的中心摂理に起こった結果、外的世界に変動をもたらしているのです。
箴言4章23節にはこうあります。
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。 」
この聖句は「心を守れ」と言っています。
ここでいう「心」は根本にある深い心、魂、内なる人、の意味です。それを「油断することなく守れ」といいます。なぜなら、そこから「命の泉」が流れ出すからです。命を中心として起こるあらゆる現象が底にある内なる人の影響を受けるということです。先週、「信じること」と「信仰」について見てきました。「信じること」は5%に責任分担であり、「信仰」は神様の95%として与えられるというものでした。「信仰」の賜物として。私たちは自分自身で「信仰」をつくりだすことはできません、ただ「信じる」ことのみできるのです。神様はその時を見計らって「信仰」を与えて下さいます。それが「信仰」の始まりでした。神様から始るのです。同様に、魂が夜の闇の中をさまよう時、「神様私はなぜ今、暗い谷にいるのですか」と尋ねます。「私はここでどう振舞えばいいですか」ではなく「神様あなたは何をしておられるのですか、どうしてここに導かれたのですか」と尋ねます。アビラの聖テレサは「魂が夜の闇をさまよう時に(心の)草刈りをしてはならない」といいました。なぜなら深い内に潜む魂、内なる人を私たち自身もよく知らないからです。聖テレサは「夜の闇の中にいる時は忍耐して庭師を招き入れなさい。そして良き種を植えることができるように、草の刈り方を習いなさい」といいました。シュミータ(安息年)を迎え、迫害と様々な問題を抱える私たちにとってこのことは重要です。私たちは神様の権威の圏内に人々を導こうとしています。例えば下水道の中には様々な泥が流れているが、その上部は舗装されていて上から見えない状況を想像して見て下さい。私たちも表面上は問題ありませんが、庭師(神様)に導かれて奥の方に行く時自分も想像しないような光景を見ます。神様が私たちの内にある泥水の流れを見せて下さるのです。
神学には「意識神学」対「無意識神学」という考え方があります。「意識神学」では、表面的には「神様は全権を所有しており、玉座について主権者として私を見守っていて下さる」ことを当然のこことして認める一方で、「無意識神学」では心の奥深く尋ねて行くならそこには「不安」があるというのです。不安に溢れているのです。
表面的には「神様は主権者である、神様は力強い、玉座について私を導いて下さる!」と叫んでいても深層には泥水が流れている。魂の夜の闇の中、神様は私たちをその泥水のある場所に導かれるのです。そしてそこで何かを学ばせようとなさるのです。そこで何を学ぶのでしょうか。自分自身の事に限られる訳ではありません。
これは泥炭地の写真です。
こちらに草原がありますね。おそらくここが最も危険な場所です。なぜならここを歩いていると突然穴に落ちるように沈み込んでしまうことがあります。これは死につながります。ある有名なランナーがこのような場所で死んだことがありました。堅い足場だと思ったところが急に沈みこむように落ち込み、彼の上を蓋をするように泥が覆ったというのです。表面は堅い足場のように見えますが、そうではなく1枚皮を剥ぐと、すぐ下は危険なことになっている。そしてそこには0度近い冷水が流れている。沼地で探検する指導員がそこに飛び込むのを見たことがあります。もしもの時に抜け出す方法を教えるためです。下はとても冷たい水で飛び込んだ指導員も冷水のショックでガタガタ震えていました。もし普通に落ちたとするなら冷水のショックと上を塞がれることで生き延びるための時間は1分しか残されていないでしょう。
問題は「無意識神学」においていかに魂を成長させるかです。知識を詰め込むだけでは十分ではありません。霊感であっても十分ではないのです。結局最後には神様との具体的な関わり合い、関係にたどり着かなければなりません。これが最も重要なことです。知識や霊感も役に立ちますが究極的には「神様との関係」です。ローマ人への手紙8章を見てみましょう。
26御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 27そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
私たちは神様に祈ると言いますが、神様が私たちのためにいつも祈って下さっていることを知っていましたか。聖霊が私を牧会しているのです。魂の成長、霊の成長過程では多くの条件を立てること、様々な宗教的修行を行う事に精誠を投入することも役に立つでしょう。しかしそれが成長のためのすべてではないのです。「信じること」と「信仰」の違いと同じです。
成長するため食物に気を配り、栄養にも気を使い適度に運動もする、こうして健康になる。霊的成長も同じように考えているのです。自分が意識して努力して成長する、そうではないのです。聖句では「聖霊が助けて下さる」とあります。原理では蘇生、長成、完成の3段階を学びますが、アダム、エバが長成期に神様との関係に置いて、もっと委ねていたらどうだったろうかと思います。箴言には「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。 」とありました。聖霊が私たちの心の内にあるということです。霊の深いところで私たちを牧会し、とりなしの祈りをしてくれているのです。日常で悩み思うこともすでに深い部分で聖霊が働いてくれているということです。肉体の成長ではどうでしょうか。例えば筋肉を成長させようと思えば、栄養摂取の内容、運動の内容を全て計画し主管します。しかし霊的成長においては話は別です。自分が主管するのではなく神様に主管して頂くのです。神様が私の心を何を見ておられるのか。そこで神様は美しい庭園の香りを楽しんでおられるのか、泥炭地の臭いをかいでおられるのか。そこでどんな音を聞いておられるのか。どんなものに触れておられるのか、ある植物を指してその名称、茎、根の仕組み、葉の様子などよく調べなさいとおっしゃっておられるかも知れません。野外で草を見分けるのは大切です、間違って口にすると命に関わるのです。
「神様が私の生活に関与してほしい、私を用いて関わって下さるなら人生は有意義なものになるだろう」これは信仰ある人の言葉です。しかし逆に私がキリストの方に関わっていくこと、キリストに関与してもらうのではなく私がキリストの生活に関わっていくことが重要ではありませんか。自分の人生についての見方を根本的に変えるでしょう。
心の奥地を訪ねる時、自分できれいな庭園を造ろうとするか、それとも聖霊を庭園設計士に迎え入れて聖霊にその設計を任せる、それが問題です。私も日本庭園を自分で作りますが、どこに橋を置き、石を置くか、何色の石にするかなどと考えます。庭を造っている時は子どもといえども近づけたくはありません。遊び場ならよいのですが、避難所、休憩所としての庭なら、例えばお父様の休憩所として作るとするならばそうなります。実際、お父様のためにいくつか庭を造りました。
心の庭を造る際、問題になることは誰に設計を任せるかです。自分で設計するのか、それとも神様に設計を委ねるのか。最終的な目的は、私の心に神様をお迎えすることでしょう。神様は「私につながりなさい」とおっしゃるのです。もし神様の住処として造るのなら、神様の好みを最優先するべきではありませんか。魂の夜の闇に導かれる時、神様は私たちを深い場所に導かれます。そこで賜物としての「信仰」を下さいます。そこでどうやって成長しようかと悩む必要はありません。神様という庭師がいらっしゃるのですから。神様に主管してもらいましょう。
岩をここに置きなさいと言われればそこに置くのです。流れをここに作りなさいといえば底に作りましょう。白い石はそこ、黒い石はこことおっしゃるのならその通りにするのです。橋はここに置き、カエデの木をここに植えなさいというのならその通りにしましょう。このように神様と聖霊に委ねることで創り変えられるのです。
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