2019年5月13日月曜日

信仰と実践、原理を教え行ったイエスの兄弟ヤコブ教皇◆'19年4月28日 三代王権こころの聖殿聖霊礼拝

聖霊礼拝・聖霊祈祷会
信仰と実践、原理を教え行ったイエスの兄弟ヤコブ教皇

2019年5月12日

三代王権・こころのサンクチュアリ教会

三代王権イエス聖霊聖殿

ヨハネの黙示録12章聖殿

:三原


今までの当教会の礼拝です。インデックスに飛びます。三代王権こころのサンクチュアリ礼拝



本文より:パウロ以前、最初の教皇ヤコブは原理を教えていました。5%責任分担を教えていました。責任を捨てませんでした。血統、王権、王冠もあります。血統、王冠、原理、責任。神様の前に義、責任、律法、プラスアルファ、イエス様が主という事実を信じ、そして実体的な王国を建てようとされました、実体的な王国。


翻訳:minion,cham,rerakuru,grazia 監修ファンクラブ

こんにちは。食口の皆様。


今日は、韓国語礼拝を天一宮でする事になります。真の家庭の榮進(ヨンジン)兄さんの娘になる信兒(シナ)が、今日、祝福を受けます。ですから、すぐ、出発しなければならないので、教会でいろいろな準備をしながら、今日は、ビデオメッセージで、インターネット放送で、天一宮で撮って、すぐ出て行かなければなりません。それで、すぐ聖書の聖句に入りましょう。

驚く内容が発見されています。二番目の本をドクター ポール ウィリアムズ博士と書きながら、これは完全に全キリスト教を揺さぶることでしょう。すべての社会主義キリスト教を破壊的に暴露する事になるでしょう。社会主義キリスト教だけでなく、カトリックの詐欺内容。それだけでなく、進化論、堕胎、政治サタン主義の内容を暴露するようになるでしょう。


特に、今これから、使徒行伝21章の内容を見ますが、パウロだけでなく、ペテロだけでなく、ジェイムズ、・・・ヤコブ、どうして、韓国語でジェイムズがヤコブだ。
*参考:本来( ya`áqöb)ヤコブJacob 。新約ではこれがギリシャ語(Iákōbos:ヤーコーボス)→フランス語James→英語と伝わり発音はジェームスとなった。つまり( ya`áqöb)は旧約ではその発音Jacob 、新約ではまったく違うJames。韓国語ではヤコボと発音、カタカナ表記ではヤコブが原語に近い。


さあ、初期キリスト教で、ヤコブは誰ですか、イエス様の兄弟です、兄弟。異母兄弟。
(注:前回もヨナニムは異母兄弟と二代王からに説明された。キリスト教会では諸説がある。単なる勘違いかもしれないが発言通りの訳。諸説にも異父兄弟あり。諸説リンク

私達はヤコブについて多く聞く事はありません。特にキリスト教では。

なぜ?なぜならマルティン・ルターが16世紀に、プロテスタント革命を始めた時、マルティン・ルターが書いた文を見てみると、信じる事のみで、ソラ・フィデ(Sola fide:信仰義認)、信じる事のみで、救いを受けるのである。信じる事のみで。こういう極端的な信仰の内容を発見して、プッシュしたのです。


そうしながら、ヤコブの手紙を、聖書に出てくるヤコブの手紙を破り捨てました。自分の聖書から。それは大変な異端でしょう。それをする事それ自体が異端ですね。なぜ?ヤコブの手紙に出てくる話を見てみると、特に2章では、「行いのない信仰は死んだものである。」と出てきます。Faith without action is dead.。


だから行いがないといけないという事です。即ち、5%の責任分担がなければならないという事です。しかし、行いだけで救いを受けるのではありません。信じる事により救いを受けるのですが、行いがその信仰と救いを証しするのです。


ですから、本当に救いを受けたなら、聖霊が入って来て、自分を変えるという事です。だから行いが変わるのです。そうですね。私達には大変簡単な内容です。なぜ?原理があるから。


しかし、一般のキリスト教では、「行い」は宗教的内容だ、パリサイ人のものであると言います。そうしながら、信仰だけが、信仰によって、信仰が重要である。確かに重要です。信仰を捨ててはいけません。
私達の教会の問題は信仰を捨てたのです。行いだけが中心となり、信仰をだんだん捨てたのです。


それもだめです。それも極端的な反対の問題です。信仰と行動。信仰と行い。自由と責任。自由と責任。自由がそれだけでだけあるのではなく、責任がそれだけであるのではなく、自由と責任。信仰と行い。そうでしょう?過度に「行い」だけに行けば、パリサイ人になり、過度に信仰だけに行けば、異端になってしまいます。

ですから、カルヴァンの場合は、・・・マルティン・ルターの後の大変重要なプロテスタント教徒で、カルヴァン教もありますね。ジャン・カルヴァンは何と言ったかというと、「一度救われたのなら永遠に救われる。」と言いました。ですから、一度イエス様を一度証ししたなら永遠な救いを受けたということです。自分がそういっています。これは非聖書的な内容です。


特にヤコブの手紙を見たら、そうではありません。孤児と未亡人を愛し、面倒を見て、奉仕する人が救いを受けると出てきます。


ですから、私たちの5%の責任分担があるということです。原理の立場から知っていますね。アダムとエバは神様と直接の関係があったのにもかかわらず、堕落しました。もちろん創世記にありますが。


韓氏オモニの天宙的な堕落に従ったら、自分はお父様の権威圏と血統が断たれてしまいます。お父様に背信した歴史を証しして支持し、自分の血統もなくなってしまいます。なぜ?韓氏オモニの堕落した血筋を受けるようになります。


ですから、堕落した聖酒を絶対に飲んではいけません。それはサタンの血統です。ですから、韓氏オモニに従った人は堕落したということです。サタンの血を相続したということです。お父様の血と血統と三代王権を捨てて、嘘を信じて、天宙的パワーだけに従って、堕落したのです。聖書の、特にヤコブの手紙において「私たちは救いを受けても、私たちは救いから離れる」という内容が出てきます。


ですから、マルティン・ルターがそれほど嫌ったのです。カルヴァンもヤコブの手紙を嫌いました。なぜなら、自由と責任を話したからです。なぜなら、信仰と行い、二つとも、一つだけではなく、信仰だけではだめで、行いだけではだめで、一緒に、信仰と行い(と話したからです)。自由と責任。


神の王国がこの地に来ても、自由と責任、両方があります。平和軍警察があります。多くの自由があっても、すべての市民には平和軍警察の責任があります。自由と責任。責任がなければ自由がなくなってしまいます。


その国の人たちは快楽主義者になり、性倫理が堕ちて行きながら、非倫理的内容になってしまい、バアル神に仕え、子供を殺し、こうなります。自由がなくなり、寡頭政治、全体主義が来ます。ですから、自由と責任、信仰と行い。




エルサレムの教皇は誰でしたか?ヤコブでした。ジェイムズ。ジェイムズはイエス様の兄弟でした。血が繋がっていました。ですから、初期のキリスト教は血統を認識していたということです。血統を。
ヤコブがアナナス祭司長が、パリサイ人が、ヤコブを殺した後、ヤコブの後継者が誰でしたか?シメオン!シメオンは誰ですか?シメオンはクロパ(の息子)、(クロパは)イエスのおじさんでした。ですから、シメオンは誰でしたか?イエス様の甥、cousin。
(注:韓国語では甥と言っておられるが英語では正しくcousin従兄と言っておられる。)


使徒でもありませんでした。使徒パウロのように、ペテロのように、イエス様に仕えた人ではありません。しかし、血筋で繋がっている人でした。シメオンが。シメオンはヤコブの後継者でした。不思議ですね?


ですから、私たちが何を発見したのか?初期のキリスト教徒たちは血筋をそれほど重要視しました。なぜ?イエス様を万王の王として侍りました。万王の王の血筋と家庭、家系をそれほど重要視しました。その人たちは使徒でもありませんでしたが。




では、どうして私たちはこれを歴史上で聞かないのでしょうか?聞きません。キリスト教がこれを言いません。どうして?
ヤコブは、ソラ・フィデの信仰だけが救いを受ける。一度救われたら永遠に救われるという、このような異端を大変嫌いました。



見てください。使徒行伝21章17節を見てみると、このストーリーを見てみたら、パウロは怒られます。ヤコブはパウロを叱ります。なぜ?噂(うわさ)が広がっていたのですが「パウロは信じることだけを教えていると、また、モーセの律法を捨てている。」という噂が回っていました。


ですから、ヤコブはどうしますか?パウロがエルサレムに戻った時にヤコブは叱ります。どのようなことが起こったか見てみよう、(21章)17節。さあ。

21:17わたしたちがエルサレムに到着すると、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。

21:18翌日パウロはわたしたちを連れて、ヤコブを訪問しに行った。そこに長老たちがみな集まっていた。

長老たちはヤコブのそばにいました。

21:19パウロは彼らにあいさつをした後、神が自分の働きをとおして、異邦人の間になさった事どもを一々説明した。

21:20一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。

21:21ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。

21:22どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。

21:23ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。

21:24この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。



ストップ!聞きましたか、皆さん?
うわさが広がっている中で、異邦人たちを伝道しながらどうしましたか?モーセの律法を捨てなさい。必要ない。何?割礼も必要ない。など、このように教えているとうわさが広がっています。
そうしてヤコブはどうしましたか?ヤコブはこのうわさが真実でない、真実でない事実を見せるためにお前たちはなんと言ってますか?(英語で)24節、24節のところ、読んでください。 

21:24この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、

きょめを行い

また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。

費用を引き受けてやりなさい。

そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。

このようにヤコブがさせました。律法を、そのようにすること君たちが律法に反し、、(言い直して)律法に反していないことを見せてやるのである。


とても不思議ですね。使徒パウロはプロテスタントでは完全にイエス様と同じくらい、み言葉は尊敬を受けているわけですが、使徒パウロの文をみてみると、もちろん神様は使徒パウロに啓示をされたりもしましたし、使徒パウロは悪い人ではないのですが、自分が語るみ言葉の中にだんだん神様の律法の内容をだんだん重要視しなくなり、だんだん信仰だけ、信仰だけ、と話し出しました。


そうしてどうなったかというと、倫理的にその教会がだんだん性の堕落、性の非倫理的内容が現れだしたのです。なぜならば、信仰だけなので、信じさえすればいいから。信じてさえいれば、行為は重要でなく、行為はバルセイ人の内容であるとして、信じてさえいれば、全てなされる。(となってしまった、、)


信仰は大事ですが、その信仰を通して、人が変わっていかなければならないし、行動も変わっていかなければならないし、行いも変わっていかなければならないのです。
イエス様を証しして信じたといいながら、継続お酒を飲み、継続浮気して、継続酒場の女遊びをして、続けて姦通し、同姓愛をしていたら、これではその人は救いを受けることはできません。


このような信仰だけで、永遠に救いを受ける、こんな異端の教えのために今アメリカのプロテスタントの教会では全て同姓愛者の牧師たちが公式的に認定されました。長老教、メソジスト教など、USAプロテスタント教会では同姓愛者の牧師たちが任命されます。なぜなら1度救いを受ければ、永遠に救いを受けるので、救い以後お前がどんな行いをしようと関係ない!だからです。


これは完全にサタンの主義、異端です。これは責任を奪っていきます。自由は責任を伴うのです。だから、異端のキリスト教がだんだん社会主義になってしまう、社会主義になってしまうのです。なぜか?責任がないから。行いがなくなっていくからです。


我々の信仰は行いをするようになっていきます。どのようにでしょうか?
カトリックのように貧しい人に食べ物をちょっとだけ投げ与えるようなこと?これは本当に人々を手助けしたことになりません。本当に人を助けることは人に力を植え付けてあげることです。魚を与えるのでなく、釣りを教えることです。平和軍警察がそうです。孤児たちと寡婦たちなど人々を羊飼いにつくる養育、それが平和軍警察です。


そのかわいそうな人々を強く作る、そのためには、釣りだけでなく全てのことをするようになります。自己のサバイバル、非常事態対処のためだけでなく、自己の個人的家庭的にmどのような、どんな究極的な状況にも負けずに戦って生き残ることができるように。そういう訓練を受けます。


それは人々にただ魚を与えるのでなく、ただ魚を投げ与えたら人は動物のように水槽の中の魚のようにそのまま自分にえさを与えてくれる人をただ待つようになる。動物になってしまう。自分の潜在能力を発展することができないでしょう。それは違う。それは人が他の人を愛するのでなく、人が人をコントロールしているのです。



ですから我々は何を発見したかといえば、初期のキリスト教では、一番初期のキリスト教ですが、カトリックの前のプロテスタントよりも前の初期のキリスト教、ヤコブが教皇をしていた当初は何をみることができますか?ヤコブは原理を教えていました。


カルヴァンを教えていませんし、ルターを教えていません。1度救いを受けたら永遠に救いを受けるなどと、このような異端は教えていません。このような非倫理的内容を教えていません。自由と責任。信仰と行い。律法と救い。なぜか?イエス様も律法を破壊するために来たのではなくて、律法を完成するために来られた、このようなみ言があります。イエス様も律法を破壊しませんでした。


イエス様もユダヤ教徒でした。神様の律法を感謝と考えていたのです。詩篇19節詩篇12節、何だ?詩篇2節、何?2章をみたら、その詩篇で律法を賛美しています。それは神様の贈り物であると言っています。悪い利己的な人たちを導くための愛であると。


ですから、自由と責任は一緒にあるのです。翼のように。これは何ですか?鳩の翼のように。聖霊の鳩の翼のごとく。自由と責任。信仰と行い。両方がすべて必要です。信仰だけだと鳩は落ちてしまいます。行いだけでも鳩は今度はこちら側に落ちてしまう。信仰と行いが一緒にあってこそ(両手を同時に動かされて)自由と責任が一緒にあってこそ神様の王国が運営されます。そうですね。


突然救いを受けたので全ての責任がなくなった?このような異端的な内容が堕落の歴史を作り上げます。
同性愛者、トランスジェンダー、児童性暴行、一度イエス様を証しして救いを受けたから、これからは赤ちゃんを殺し、赤ちゃんを性暴力して首を切って、そんなことをしているやつらも天国にいけると考えている。話にならない。

マタイ福音書7章に出るではないですか。過去にある人が私に来て「主よ、主よ、主よ。」と呼ぶだろうが「あっちに行け、私はお前を知らない。」このようにおっしゃいました。
7:22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。


その人達が皆イエス様を証ししたのに、その人達が「主よ、主よ、主よ。」救われたと言ったのに、プロテスタントの立場では救われたのに、何故イエス様は捨てますか、その人達を。
私はお前を知らなかった、知らない。何故そのようにされますか。イエス様は直接的にご自分の口でおっしゃったのに、マタイ福音書7章で。え?!


その言葉は何ですか。嘘が入っているということです。信仰だけでは駄目です。信仰と行い、信仰と行いが続けて義を追求しなければならないでしょう。そうすれば堕落しないでしょう。救われても堕落することもあります。救われても救いを失うこともありますね、何故?サタンと手を繋げば、姦通すれば、救いを受けても死ぬこともあります。救いを受けても、人は聖霊を信じ聖霊と共に動いて、行いが義に行かなければならないでしょう。そうでしょう?


このような内容が鳩の二つの翼、信仰と行い、自由と責任。
私たちに初期キリスト教、聖書のみ言葉から何故キリスト教徒達が使徒行伝21章を教えないのでしょうか。何故?使徒パウロを懲らしめるから。ヤコブは律法を保護しているから、イエス様のように。律法を捨てませんでした。


使徒パウロはもちろん律法を捨てませんでした。しかし、使徒パウロはだんだん信仰だけを中心にしたから、異邦人を伝道したから、もう数百年後には次第に感化されて極端的になります。
使徒パウロは「一度救いを受けたら永遠に救いを受ける。」それを教えなかったようです。
ところが行けば行くほど、1度の差が行けば行くほどだんだん大きくなるでしょう。数百年後にマルチン・ルターだけでなくカルヴァンはヤコブ書を破り捨て、カルヴァンは極端的にしたでしょう。「一度救いを受けたら永遠に救いを受ける。」このような異端の内容、人を魚に、金魚鉢にいる魚のように作る、エサだけ待っている、そのような被害者達に作っています。


神様の王国はそうではありません。神様の王国は私達をただの魚に作られませんでした。羊から始まりますが、羊飼いに変わらなければなりません。そうでしょう。羊から始まりますが、羊飼い、詩篇23章に出る「主は私の牧者よ」牧者に似なければならないでしょう。
羊がただ羊に似たら牧者に似ません。牧者に似てこそ羊が牧者になります。そうでしょう、簡単な内容ですが、そうですが、あまりにも驚く発見です、これは。


何故?このような内容を通して私達は初期、初期、初期キリスト教、エルサレム教皇ペテロ以前、パウロ以前、最初の教皇ヤコブは原理を教えていました。5%責任分担を教えていました。責任を捨てませんでした。血統、王権、王冠もあります。血統、王冠、原理、責任。神様の前に義、責任、律法、プラスアルファ、イエス様が主という事実を信じ、そして実体的な王国を建てようとされました、実体的な王国。


初期キリスト教にお父様が語られたすべての内容が証されていました、原理。み言を証しています。何故?原理5%責任分担がどれほど重要ですか、これは。


アダム、エバ5%責任、私達はすべての預言者達と主様まで分析するとき、5%責任分担で分析するではないですか。アダム、エバ5%責任分担、ノア、ノアおじいさんの5%責任分担、モーセの5%責任分担、アブラハムの5%責任分担、いや、アブラハムが救援を受けても5%責任分担あったではないか、鳩を裂かないで。え?イエス様の5%責任分担など、原理はすべて5%責任分担です。自由と責任、自由と責任、信仰と行い。


ですからどうなりますか。21章では、お前そこに行ってそのような霊的訓練を受けろ。


また使徒行伝23節見てみましょう。


21:23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。


四人の誓願、誓願は何ですか。約束、何の約束?四人の約束、これは何ですか。霊的訓練する人達です。特別にぶどう酒を飲まず、ただの酒を飲まず、また性関係をしないで、また、簡単に言えば修道生活する人達です。ですから霊的訓練、訓練する人達、ですから使徒行伝23節に出てくるその人達に従って行きなさい、従って行き、何ですか、24節。


21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い


きよめの儀式、(ヨナ王妃:清潔にしなさい。)だから、清潔にしなさい、清潔、清潔にしなさい。その言葉は何ですか。
使徒パウロはもしも汚くなったのであるのならば、使徒パウロは律法必要ないと汚くなったのであれば、ヤコブは何をさせますか?誓願を立てた四人と約束、そのような霊的な修行した人達と(供に)清潔にしなさい、え?頭を丸めて、驚くでしょう。


ですから何ですか。私達の原理でも修行とは呼びませんが、何と呼びますか。条件と呼びますね、条件。蕩減摂理に条件を立てなければならない、という内容が出てくるではないですか、原理に。ですがプロテスタント教徒がそれを見る時に「あー、お前達はただ行いで救いを受けると考えている。」とこのようにいつも迫害しました、プロテスタント教徒たちは。


ですが、初期キリスト教徒達は、血統を重要視して、王冠を重要視して、神様の王国が地上にあることを重要視して、また条件を立てることを重要視しすることが、ここに見えます。23節、24節に。条件、霊的訓練、訓練が重要なのです。
ただ信仰、信仰、信仰、信じて、信じて、信じてだけではないのです。信じて歌って、信じて歌って、それも重要です。ですが、行い!も重要です。訓練!も重要です。訓練。自由と責任、天一国神様の王国に自由がありますが、平和軍警察責任!羊飼いになる責任。
だから、訓練を重要視しました。驚いたでしょう?何故我々はプロテスタントからこれを聞くことができないのでしょうか?

初代教皇ヤコブ、イエス様の兄弟は、血統を重要視し、王冠を重要視。王冠もあるし、神様の王国が地上にあることを重要視、更には条件をたてること、行い、訓練すること、訓練。訓練することが重要だと。5%の責任分担。驚いたでしょう。


だから、信仰はとてもとても、とても重要です。しかし、信仰だけでは駄目なのです。信仰だけでは駄目です。

ヤコブ書2章に行きましょう。ヤコブ書2章。
はい、14節。さあ。
(ヨナ王妃様) はい、ヤコブの手紙214です。
2-14 兄弟達よ、ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
その信仰が、彼を救うことができるのか。ほら、見なさい。信仰が、行いのない信仰では救うことができなかったのです。
2-15 ある兄弟または姉妹が着る物もなく、その日の食物にもこと欠いている場合、
2-16 あなたがたのうち、だれかが「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
2-17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
2-18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」という者があろう。 それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。
わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。出てくるでしょう、これが出てきたでしょう、驚きました。


だから、我々の教会(統一教会)はとても行いだけの方向に行ってしまったから、それが、とても宗教的になってしまったのです。そして、詐欺野郎共がお父様を利用しようとしたから。あいつ等も行いでお互い競争したのです。ところが、それは信仰を徐々に弱くしてしまったのです。しかし、信仰が重要です、信仰が重要ですよ。しかし行いも重要です。両方重要です。


極端に片方に偏ってしまってはいけません熱い信仰もあれば、熱い行いもなければなりません。冷めた信仰、熱い行い。それも違います。熱い信仰、冷めた行い。それも違うのです。熱い信仰、熱い行い。そうでしょう?え? そのように考えれば理解出来るでしょう。 二つともなければなりません。自由と責任。熱い信仰、熱い行い。
このようなことから、我々はこれを見ることができます。驚きです。驚くべきことです。皆さん、このような素晴らしい役事があるのです、初期キリスト教に。


簡単に言うと、初期キリスト教、初代教皇ヤコブはイエス様の血統に連結された兄弟です。 エルサレムの教皇、その方が、カルヴァン理論、ルター理論を教えることなく、初期キリスト教に、原理を教えていたのです、原理を。これは、お父様を証す歴史的な発見です。 


二番目の本では、これが、ヤコブについて出てきます。何故キリスト教はヤコブを隠したのか。何故ヤコブを隠したのか。これは、とても驚くべき内容です。


ヤコブのことを調べてみると、血統、重要視、初期キリスト教です、すべて。血統の重要視、「わァ、あの方はイエス様の兄弟だ」このようなことをとても重要視しました。
血統の重要視、王冠、神様の王国は地上でなされる。そして、条件、修行や訓練。このようなことをとても重要視しました。初期キリスト教がです。


そしてヤコブはどのような権威があるかと言うと、使徒パウロもペテロ、イエス様はペテロに教会の鍵まで与えたではないですか。ところがペテロまでも、ヤコブの下だったのです。驚きでしょう?このように多くの権威と尊敬を受けているヤコブはイエス様の後継者なのです。


マルチン・ルターの理論、カルヴァンの理論、プロテスタントの理論を教えたのではなく、原理を教えていました、原理を。5%の責任分担。自由と責任。自由が責任を願うように、信仰には行いも共になければならないのです。


何ですか? 冷めた信仰、熱い行い? いいえ! 熱い信仰、冷めた行い? いいえ!熱い信仰、熱い行い」で、主の王国を、自由と責任、自由と平和軍警察、訓練で、孤児や未亡人まで力を貸してあげ強くし、神様の相続者として育ててあげるのです。


そのような事から皆さんも、平和軍警察を大切に考えて、農業、鉄杖訓練、釣り、狩猟、このような事柄を教わるだけでなく、子孫に教えながら、強い市民に、自由と責任と、隣人に力を貸してあげることの出来る羊飼いに、我々には成長しなければならない責任があります。主の、神様の王国に住む人々は、ただ羊だけではいけません。住人が羊飼いになる、牧者になるように養育、成長しなければならないのです。


さあ、今日はここまでにして、来週の説教に期待して下さい。
来週、お会いしましょう。


ー聖霊役事祈祷会ー
今、私は聖霊とともにあることを感じます。私自身祈れば聖霊の炎で手が包まれ熱くなるようになりました。康お母様と共に聖霊の御業を受け主の聖霊に賛美を捧げましょう。
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