2015年6月17日水曜日

2015年6月14日 The Panoplia of God<神の全身武具> 文亨進 (4回シリーズ3回目) お母様は公式の場で聖書も原理講義も学んだことが無いと仰いました。

Sanctuary Church Sunday Service, June 14th, 2015

6月9日韓国語説教をベースとした説教です。韓国語説教を参考下さい。

4回シリーズ3回目です。 聖書学のかなりアカデミックな大学講義のような話です。亨進様を慕うという事は、聖書を学問的に学ばないといけない!という事です。(汗)そして真の武士道も。どなたか統一武士道を書いてみませんか?

何故このようなことをされるのか、それはお母様がご自身でおっしゃいました。自分は聖書を学んだことがない、また原理講義を一度も受けたことがないと公式の場で言われました。そのようなことはすべて知っているのだと。これこそが問題なのです。神様のみ言から離れた結果、み言によって明かされる摂理からも離れてしまったのです。


The Panoplia of God(神の全身武具)
時々お父様が再臨のイエスであるということを忘れています。イエス様とお父様は一つです。だからイエス様を愛することは喜びです。今日は「神の全身武具」というテーマでお話しましょう。
先週も少し触れましたが、今日もエペソ人への手紙(エペソ書)6章の11節から18節まで一緒に読んでみましょう。後半部分を詳しく見ることにします。


 11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 12 私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
 13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身に着けなさい。
 14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸に着け、
 15 平和の福音の備えを足にはき、
 16 その上に、信仰の盾を手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
 17 また、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
 18 絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。


先週は前半部分を詳しく見ました。これらの聖句のギリシャ語の意味を学んで行きました。古代の文献に直接当たる時、英語に翻訳される時にぼかされてしまった、美しい宝石のような深い意味を見出すことができます。たとえば「戦う(wrestle)」という単語があります。「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」


興味深いことにこの節の中で「対する(against)」という単語が5回も使われています。またここで用いられている「戦い(レスリング)」(ギリシャ語でパレπάλη)の意味が分かるでしょうか。これはオリンピックなどで見るレスリングとは異なります。そこでは3種の格闘技が行われます。まずレスリングでは互いに組み合い、四肢を締め付け骨を砕き、殺す事もあります。それからボクシングです。拳にナイフを付けて殴り合います。だから古代のボクサーは鼻や耳が欠けているのです。文字通り、マーベル・コミックのウルヴァリンのようなことが行われるのです。それほど過酷なのです。
そしてそれに勝ち抜くと、最終ステージではありとあらゆる武器を用いることが許されるのです。パウロが意味する戦いとはこのような過酷な戦いを意味しているのです。戦いの過酷さを一旦分かってしまえば、私たちはそれに備えることができます。
敵と対峙する時は説得して心を入れ替えさせる良い機会だなどと甘いことを悪魔は私たちに思わせたいのです。いいですか皆さん、サタンは何千年と人間を見てきたのです。サタンの心を入れ替えさせることなどできません。逆にサタンと対話すれば、あなたが変節させられるだけです。キリストに従う者と呼ばれる私たちは悪魔に立ち向かっていくのです、戦いを挑むのです、霊的戦いに備えるのです。戦いの過酷さに備えなければなりません。格闘技のMMCやUFCで闘いに備えるのにバレーの練習をしますか。そんなことをすれば大変なことになります。相手は毎日、敵を倒す練習をしているのに、ダンスの練習をすることなど。


霊的戦いというものを知らなければなりません。さもないと次のような様々な思考、思想に引っ掛かってしまうでしょう。
「問題は善と悪の戦いという単純なことではない・・・あなた自身の中に平安を見いだすこと・・・戦いなどないのです、二元論的な考えは戦争をもたらすだけです・・」。実際は全くの逆です。歴史的に大量虐殺をもたらしたのは国家主義、社会主義、共産主義の勃興によるものです。神のみ言を蓄えて悪に立ち向かう人々ではありません。
ここで世界教会に目を移せばお母さまの問題があります。教会をお父様から離れる方向に導き、天の経典である天聖経からみ言を消し去りました。
聖書からみ言葉を80%削除しようとするときクリスチャンは何というでしょうか。コーランの80%を変えようとする時イスラム教徒がどうするでしょうか。首を切り落とされるでしょう。しかしそれがなされました。お父様が聖和されると直ちに神聖冒涜が行われたのです。
お父様がまだ病院におられる時ソウルの日本レストランで、聖典を改ざんするための何かの委員会を作るための会合を開いていたことを覚えています。人間の手による方が、人間の愚かさの方が神様よりも優れていると思ったのでしょうか。
そしてたとえ厳しい苦難と拷問、神様の深い悲しみの中にあっても神様の栄光を讃える息子、試練と十字架のさなかでも神様を讃える息子による天一国の精神である天一国国家「栄光の賜物」をサタンは憎み取り除きました。続けて家庭盟誓、聖婚問答まで、そして神様までも。
お母さま私の母であり愛していますが、女神になろうとして神様を二神教的な神に変更しました。完全に聖典から離脱してしまいました。新約から続く摂理の根から離れ去ってしまいました。そしてすべての者を清平の奴隷にしようとする偽りの憲法からは「原理」を排除しました。愚かな行ないです。この憲法の作成者、委員会には何の権威もありません。
なぜなら真の父母の相続者、代身者の私が承認していないからです。またそのようなものに頼まれても承認はしません。
またお母様が自己の位置から離れる写真を見ました。素晴らしい、素晴らしいと讃美する者に囲まれているのです。王妃が王様の玉座について王を卑しめる。アジアの文化、特に王室においてこれは、最も侮蔑的なことであり一番してはならないことです。ラスベガスでも見られました。頻度がますます上がっています。
何故このようなことをされるのか、それはお母様がご自身でおっしゃいました。自分は聖書を学んだことがない、また原理講義を一度も受けたことがないと公式の場で言われました。そのようなことはすべて知っているのだと。これこそが問題なのです。
神様のみ言から離れた結果、み言によって明かされる摂理からも離れてしまったのです。


神様のみ言から離れて、「大学」という名の悪魔の神学を教える施設で学ぶようになります。そこでは中央集権、国家主義、共産主義的原理に基づいて博士号の学位を与えてくれます。彼等はそう呼ぶことはせずに、それを民主主義とよんでいますが実際の所、社会主義を教えています。そして最後の総仕上げに「聖書は歴史学的に信頼のおけない文書だ」と言い放ちます。
ディスカバリー・チャンネルやナショナル・ジオグラフィックなど真実を探求するという番組でも聖書の描くイエスの歴史的存在に疑問を抱かせます。あるいはイエスは神話的、伝説上の存在であり、伝説に基づいて神話化された存在で現実に存在した人物ではないとまで言います。聖書についてとことん深く研究しないでテレビ番組から聖書のイエスについて知識を得ようとする愚か者たちです。彼等は実際の歴史文献としての聖書の価値を知りません。私も学んだハーバードに行っても教えてくれません。そこでは重箱の隅をつつくような、ゆがんだ歴史編集を学ぶだけです。東洋史西洋史にかかわらず古代史を学ぶ際、信頼できる文献を歴史書と呼びます。
ではそれが真正のものであるかどうかどう判断するのか見てみましょう。その際、重要になことの第一は、著者がそれを実際に著した時とわれわれが手に入る最古の文献との間にある時間の長さです。例えば著者が西暦元年にある書物を書いたとして、われわれが手にすることのできる最古の写本が西暦500年のものとすると、そこには500年の時間差があります。
これが歴史的文献の判断基準の第一です。写本(manuscript)の意味をご存知ですか。手で(manu-)書いた(script)文書という意味です。タイプライターのコンピュータもない時代ですから当然です。パピルスの繊維を編んだものの上に書いたのです。(スクリーンに)古代の文献の執筆時期と入手可能な最古の写本の作成時期との差の一覧を見て下さい。古代ローマ帝国について著した小プリニウスを見て下さい。テレビ番組などで知る帝政ローマのほとんどは彼の文献をもとにしています。
小プリニウスが執筆してから入手できる最古の写本が書かれるまでの期間は750年です。この差が短ければ短いほど、抜け落ちや誤記、改竄などの機会が減ることは明らかです。ですからその差が短い方が望ましいのです。逆にその間の期間が長くなればなるほど変造されやすいと言えます。15:19
20万ドルの学費を払ってアイビーリーグに通って歴史を専攻して学ぶ帝政ローマの情報もほとんどが小プリニウスの著作を元にしたものです。小プリニウスを通してギリシャ・ローマ時代を見ているのです。このようにして歴史的証拠を得るのです。これらをもとにその物的証拠を得ようとすべての考古学が存在します。
またプラトンの箇所を見て下さい。彼が実際に書いた時代からわれわれが手にする最古の写本までの間の期間は1200年です。皆さんの中でリベラル・アーツ・カレッジで学んだ方はおられますか。別名サタンの神学を学ぶところですけれど。そこでは古典を学ばされるでしょう・・西洋文化の源となる古典、プラトンの「四部作」、「洞窟のたとえ」、「国家」、「イデア論」などを学ばなければなりません。それらを学ぶ時、誰もその著作が改竄されているとは思いません。
その際、社会主義的な大学教授はそれらの文献がオリジナルから1200年隔たっていることは絶対に口にはしません。これは本当に深刻な問題です。そしてプラトンをまるで福音書のように教えています。大学で哲学を専攻した人はいますか。プラトンのオリジナルの文献として教えるでしょう。その同じ教授が聖書に関しては「信頼性に疑問がある」というのです。
ヘロドトスはどうですか。古代ギリシャの文化のほとんどは歴史家である彼の著作から学びます。彼のオリジナルからわれわれの手にする文献の間には1300年の隔たりがあります。ジュリアス・シーザ―(カエサル)に関しては彼のオリジナルの自伝からわれわれが手にする最古の写本まで1000年の隔たりがあります。それだけ空いていれば改竄の可能性も十分考えられますね。良く聖書について言われることです。
次にホメロスのイリアス、これは500年の隔たりがありました。これらの著作がいわゆる学問的に古代ギリシャ・ローマを再現する際、源になる資料の全てです。学者はこれらを福音書のように扱いますが、オリジナルからどれほど時間が経っているか見て下さい。
それでは新約聖書はどうでしょうか。オリジナルからの隔たりを見てみましょう。西暦325年のニケア公会議でコンスタンティヌス1世がキリスト教をまとめようとして司祭に作らせたという人がいますがそれは真っ赤な嘘です。そう信じていた人はいますか。イエス様から300年後です。
新約聖書のオリジナルが書かれてから、われわれが手にする最古の写本までの隔たりは40年です。500年でも800年でも1300年、1400年でもありません、40年です。
山ほどある古典の中でこれに匹敵するものはありません。
聖書は40年後に書かれたものが存在するのです。
ちなみにアリストテレスの「詩学」は1400年の時間差があり、プルタコスは800年、ヨセフスも800年です。平均すると古代の著作はオリジナルから500年の隔たりがあるのです。それにもかかわらず正典として扱っています。
そうしておきながら聖書に関しては「信頼性に欠ける」と嘲笑っているのです。確実な証拠に基づいて言うなら聖書は古代文献の中でも傑出してオリジナルに近いものだと言えるのです。これに匹敵するものはありません。そしてサタンの方針に従わせようとしてこの事実を学術・学問の場で明らかにしたがらないのです。こうして中央に権威を集めそこをサタンが易々と支配しているのです。
神学者のダン・ウォレスは「シーザーやアレクサンダー大王に関する文献よりも、数多くのそして時代的にも近い文献がイエスについて存在する」と言っています。「イエスが本当に実在したのか分からない。テレビのディスカバリー・チャンネルではイエスは神話だと言っていたから」という若者もいるのです。若者だけではありません、大学教授もそう教えているのです。
しかしジュリアス・シーザーやアレクサンダー大王の存在を疑う者はいません。
ところがイエスのことになると「神話的存在で、実在の人物ではない」と主張するのです。歴史文献学の2点目はどれだけの量の文献が存在するかということです。
シーザーに関して知り得る文献の数は10です。文献はあればある程良いのです。それぞれ異なるところもありますが共通項が見出せます。それによって原典が再現できるようになるのです。ですから文献が多いほど研究者にとっては好ましいのです
。ところで「シーザーは神話であり実は、実在しなかった」「アレクサンダー大王は神話、伝説だった」などというテレビ番組は見たことがありません。イエスについてだけそういうことが言われるのです。その理由はサタンがイエス・キリストを憎んでいるからです。
あなたがイエスについて信じることはあなたの永遠の生命に永遠にわたる衝撃を与えるのです。シーザーやアレクサンダー大王についてどう思おうと関係ありませんがイエス・キリストについて信じることは永遠の命に影響を与えます。
だからサタンはイエスを神話的な存在、想像上の歴史的人物だと思いこませたいのです。
私が哲学を学んだ時、プラトンやアリストテレスについて学びましたがそれらはオリジナルの原典だと思っていました。それらの元になるものがたった七編の写本だとは想像しませんでした。
ローマの歴史家で最も有名な人物、タキトゥスに関して原典と手に入る最古の写本との間には1000年の時が存在します。そしてその数も33冊に過ぎません。ローマ帝国についてのほとんどはタキトゥスの著作によるものです。アリストテレスは49編の著作があります。これは他と比べると多い方です。
旧約・新約聖書には何と5万3千もの文献が存在します。新約にかんしては2万7千(内ギリシャ語の文献が5千8百)、旧約は2万6千です。聖書は世界で最も信頼のおける古代文献だと言えます。
もしこれを疑うとすれば、プラトン、アリストテレスもすべて疑わなければなりません。これを愚かな嘘付き、詐欺師、人々を奴隷状態に留め置くことを願う者たちはこの事実を明らかにしたくないのです。聖書が古代文献の中でも傑出して信頼度の高いものであるということを。これを疑うのならそうしなさい、しかしプラトン、アリストテレス、ヨセフス、タキトゥス、ヘロドトス、ソポクレス、プルタコスなどすべて神話ではないかと疑わなければなりません。
旧約、新約についで数多い文献は「イリアス」の千八百ですが、5万3千にははるかに及びません。平均的古代文献を床に積み上げると120センチの高さになるでしょう。新約聖書の文献を積み上げるとすれば1600メートルの高さになります。その上に旧約を積むと高さは3キロメートルになります。このように実証的に見れば聖書に関しては他の古代文献の及ぶところではありません。
いわゆるリベラル・アーツ・カレッジ、真実を追求する、という大学、ハーバード大学の校章には「真理たれ(VERITAS)」とありますが、どうして在学中にこのような(疑いの)内容を教えたのでしょうか。
イエスの存在を神話だとするのはなぜでしょうか。2000年以内に書かれた古代ギリシャ・ローマの古典の数よりも200年以内に書かれた新約関連の文献の数の方が多いのです。
33歳で亡くなり、しかも3年の公的活動しかしていない人物についての文献が五万八千もあるなんて信じられますか。30:25


貧しい家庭に生まれ犯罪人として死んだ人物です、歴史の中で忘れられて当然でしょう。どうしてこんなにも記録が残っているのか。
学者たちが共通に問題視する箇所はマルコ16章の12節から20節です。また姦淫の女に罪なきものが石を打てという部分のあるヨハネ福音書7章、8章についても後代の改ざんを疑っています。初期の文献にはこの話がないからです。そこで無神論的神学者はこう言います。「ヨハネ7章と8章、マルコ16章には問題があるので聖書は全体として信頼できない」。それらの箇所の問題部分はそれぞれがせいぜい2文程です。逆にいえば、新約聖書全体の中で問題があるのは4から8つの文に過ぎないということです。そのほかの部分は無神論的神学者でさえ文献としての正当性を認めています。

人がこう言うのを聞いたことのある方は手を挙げて下さい。「イエスが十字架で死んだというのも分からない。なぜなら福音書はイエスが死んでからずっと後で書かれたからだ。たとえばマタイ伝は50、60年後、ヨハネ伝は110年後に書かれたものだ。様々なグループが色々な異なる種類の伝承本を用いてそれぞれがそれぞれの仕方で礼拝していた。西暦380年にカトリック教会はそれを一つにまとめてキリストの血と肉を中心として儀式、聖酒による秘跡などを、福音書から選び出しながらミサの形を考案した。それらはイエスが死んでからずっと後に書かれた4つの福音書をもとにしている。」

新約聖書の写本には30万から40万箇所の相違があります。40万のグループがそれぞれ礼拝を行っていたのでそういうことになったのでしょう。しかしそれらの相違の75%から80%はスペルの間違いであり、またマルコで見られるように、彼→イエス→イエス・キリスト→主イエスなどの表記の違いもあります。意味の取り違えはわずか1%以下に過ぎません。そして教義にかかわる相違点は一切ありません。
こういう知識がないとまんまと騙されてイエスは神話上の存在であり旧約聖書は神話だから、そんなものに従うことなく自分達で道徳をつくるのだということになります。ヒトラーなどと同じ考えに陥ってしまいます。

たとえば「私に道徳を押し付けないでくれ。道徳なんてアイスクリームと同じでそれぞれ好きな物を選べばいい。道徳に関して良い、悪いなんて誰も言えない。例えば人のラジオを盗んで文句を言われたら「私は別に盗みは悪いという考えは持っていないから君とは考えが違う」と言ってみなさい。これを道徳相対主義と言って最も愚かしい哲学のひとつであり、頭脳を持つものならば直ちにその誤りに気付くものです。しかし多くの人が脳死状態に陥って、大学などへ行ってはサタンの根である道徳相対主義の犠牲になるのです。堕落は道徳を相対化したことに始まります。
「食べても死なないかも知れません。神様のおっしゃることは真実ではないかもしれません。自分の道徳、自分の法律を作りなさい」などと言って。アメリカはまさにこの荒れ狂うサタンの罠に陥っています。

そこでエペソ人への手紙にあるように神の全身武具を身につけるのです。これによってサタンの狂乱に立ち向かうのです。サタンは繰り返し同じ方法おなじやり方で罠を仕掛けてきます。だから神様は全身武具を下さったのです。「エペソ人」に「平和の福音の備えを足にはき」とありましたね。ローマ兵の靴底には釘が打ちつけてありました。これで敵を蹴ると殺人兵器になります。

ギリシャの闘技場の中での平和・平安の意味は、戦いの中で冷静で落ち着いていることです。日本の武士道で言う「無心」です。これが「平和の福音の備えを足にはき」のいう「平和」の意味です。それは闘いの中での武器であると同時に自分を落ち着かせる能力です。格闘家はこれが闘いの中で重要であることを知っています。「信仰の盾」は水に漬けて油を注ぐと言いました。革が乾燥して裂けないように油を毎日塗らなければなりませんでした。相手の火の矢が刺さってもすぐに火が消えるように盾には水を浸み込ませておくのでした。

またパウロは「真理の帯を腰にしめ」と言いました。ローマ兵の武装を見る時最初に目につくものは何ですか。兜の上の羽飾りですか。6種からなる鎧も重要ですが、最も重要なものは腰のベルトなのです。隠れた武具です。表に出て輝くこともないですし何か飾りが付いている訳でもありません。しかし最も重要な武具なのです。もしそれがなければ戦いの最中、胸当てはパタパタと開いてしまいます。

ベルトはそれを固定します。また行軍のとき盾はベルトに留め金で固定します。そしてそのベルトには剣がささっています。ベルトは他の武具をまとめる役割を持っているのです。この腰の前だれはベルトの延長と言えます。皆さんが朝起きてズボンをはく時まずベルトを締めるでしょう。もしベルトをしなければズボンはずり落ちてしまいます。シャツもはみ出てしまうでしょう。ベルトがなければすべてがバラバラになってしまいます。
神様の全身武具では真理のベルトは胸当ての正義を掴んでいます。神様のみ言である真理は正義を掴んでいるのです。お父様は原理を解明する時、徹底的に聖書を研究されました。神様のみ言、聖書から外れて、生きた言葉として生活と関係しなくなっていくとき、あなたの正義は崩れて行くのです。
真理のベルトを毎朝、しめなければ信仰の盾はどうなりますか。信仰が固定されません。真理のベルトがなければ御霊の剣、神の言はどうなりますか。

パウロがここで言う「神の言」はロゴスではなくリマです。神のロゴスは神様の言葉であり、ここでいう剣、神のリマはある瞬間に必要な適切なみ言をいいます。イエスが荒野でサタンの試練を受けた時、サタンが来て「石をパンに変えよ」といったときイエスは何と言いましたか。「人はパンのみで生くるにあらず」と答えました、これがリマです。
サタンが攻撃を仕掛けてきた時、(剣を抜くように)神のみ言をスラリと出してサタンを切りつける。それがリマです。二つ目は「宮の頂上から飛び降りよ。天使が支えてくれるだろう」。イエスは「主なる神を試みてはならない」と応じます。接近戦でリマの一撃です。つぎにサタンの「跪くなら国々の権威と栄華を全て与える」という言葉には「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と応えました。これもリマです。これがリマとロゴスの違いです。
リマは悪との接近戦で用いる端的かつ的確なみ言です。私たちがある問題でサタンから圧迫を受ける時、み言をさっと掴んでリマとするのです。聖書を開いてその瞬間に必要なみ言、リマを得るのです。何も考えずに天聖経を開きみ言葉を掴むのです。それが皆さんのリマです、悪との接近戦で用いるのです4513
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